ひつじの絵をかいて!

いろいろ拗らせた本の虫女子大生の独り言。すべては主観であり、個人的な意見です。

女の武器を使うことの是非の話――映画「バーレスク」

 残念なことに、日本はいまだ前時代的な男女差別の構造を抱えています。政治家や会社役員の男女比を見れば一目瞭然です。大学生である私も、これまでいたるところで社会に出たら女性は大変であるという話をされてきました。授業中の雑談で教授がぽろりとこぼした、「女性の皆さんは大学に行けているという段階で、まずあなたは相当に恵まれた環境で育ったということです」という言葉にびっくりしたこともありました。

 

そんな状況を打開すべく、女性の活躍、男女平等が謳われました。その結果、実情はそこまで追い付いていないにも関わらず「逆に今の状況は女尊男非である」と言い出すひともいるのだとか。

割り勘の問題も最たるものですよね。圧倒的な賃金格差を背景に、男性の方が支払いを多く持つことが当たり前だったのなら、未だ賃金格差が解消されていない状況では場合によっておごりでもいいのでは? と考えてしまいます。

私はまだ学生ですし、幸いなことにアルバイトの時給の差など高が知れたものなので、割り勘ウェルカム派ではありますが。

 

そんなTwitterでうっかりつぶやこうものならちょっと怖いミソジニストにロックオンされそうな話はさておき、今回は「女の武器」についてのお話です。

 

身体の、顔面の美しさは、時に「女の武器」となり得ます。映画などにもハニートラップや美貌によって富豪に見初められるシチュエーションはよく見かけますよね。

現実にも、女の武器の使い道はあります。日常生活を円滑にするためにも有効に利用ができそうですが、思いつきやすいのがストリップやキャバクラ、風俗関連など水商売でしょうか。

水商売では(内情を詳しくは知らないので推測にはなりますが)第一に重要視されるのは顔や体の美しさでしょう。学歴や資格などがなくても就職は可能ですし、美しさと対応力があれば、その辺のサラリーマンよりはるかに稼ぐことが可能です。

 

また、美貌で将来有望な男性を捕まえ、専業主婦になるというのも、ある意味女の武器を活用したものといえます。ピルを飲んでいると偽って子を身ごもり、結婚に持ち込むというのも、(やる人がいるかは別として)究極的な女の武器の使い方かもしれません。

 

さて、話は冒頭に戻ります。社会の男女平等を達成するためには、女性の進学率を上げて、男性と同じくらいバリバリ仕事をこなさなくてはなりません。「女だから甘く見てもらえるんだろう」という声を封じるためにも、媚びずに自立した女性であらねばなりません。

対して、女の武器を利用している側は、男性に媚びることで商売が成り立っています。これは、男性優位な社会だからこそ、何とか生き残りの道を探った女性たちの生存戦略の面も持っているからです。

 

どちらも、間違ってはいないのです。社会の現状に抗おうとする理想主義と、今ある状況に適応する現実主義なのですから。しかし、相反するがために分かり合うことは難しくなります。

バリキャリ側からしたら、男に媚びる女性は男女平等の足手まといに見えるかもしれません。「専業主婦になりたい!」という別の女性を見た男性に「女は専業主婦っていう逃げ道があるからいいよな」と言われて、腹の底から煮えくり返る思いをすることになります。

逆に、女の武器をうまく利用している側からすれば、バリキャリは男女平等という絵に描いた餅を追いかけているように見えるのではないでしょうか。

 

うーーん、理想は追い続けないと現実にならないし、大学まで進んでいるし、という理想主義の私と、利用できるものは利用して何が悪いの?という現実主義の私が常に内部でぶつかり合っている、私にとっても永遠の疑問でもありました。

 

そんな中で、観た映画が、こちら、「バーレスク」!!(突然)

 

 

 

 

アイオワの片田舎から歌手になる夢を追ってロスに来たアリは、職探しがうまくいかず途方に暮れていたところで、バーレスクというクラブを見つける。そのきらびやかな世界に魅了されたアリは自分を雇ってくれないかと持ち掛けるも断られ、無理やりウエイトレスとして籍を置く。ある日そんなアリにチャンスが訪れる。アリは経営難の店を救うきっかけになれるのか──?

 

というストーリー。ミュージカルという時点で好き確定なのですが、なんといっても歌がとっても良い!!キャラクターもみんな魅力的で(ショーンが好き)ガールズパワーあふれる、元気になれそうな映画でした。

 

そんなハッピーな映画なのに、またどうして冒頭が不穏なのというと、アリが勤め始める以前のバーレスクが、ストリップ顔負けのお色気ショーを売りにしていたからです。キャストの口パクにアリが言及すると、オーナーのテスはこう答えます。「うちのお客は歌を聞きに来ているんじゃないの」

バーレスクの女の子たちは、セクシーな衣装とダンスを前面に出し、まさに女の武器で勝負をしているのです。

また、このようなストーリーにつきものなのが、金持ちの男の存在。マーカスという富豪の男と、困っていたアリを住まわせてくれたバーテンダーのジャックの間で、アリは揺れ動きます。マーカスはバーレスクを買い取る話もテスに持ち掛けます。マーカスは芸能記者とも面識があり、大金持ち。バーレスクの危機も救ってくれて一石二鳥以上の男です。

この展開になった時点で、私は「ああ、これでマーカスに助けてもらったら、それはそれで物語は成立するけど残念だな」と思いました。アリの歌声はすばらしいですが、セクシーな格好でセクシーな歌を歌い踊るアリは、女の武器を使っています。ここでマーカスに丸め込まれて、幸せになりました、解決しました、では、その女の武器で戦い抜くのではなく、女の武器をもってしてでもかなわない、社会的地位の高い金持ちの男性が勝利してしまうことになるからです。

 

しかし、物語はそうは進みませんでした。ジャックとけんかしてマーカスの家に向かったアリは、置いてあった模型から、マーカスがバーレスクを買っても、お店は取り壊されて高層ビルにされてしまうことを知ります。そこでアリは絶望しているテスに話を持ち掛け、以前マーカスに聞いていた「空中権」を巧みに利用して、バーレスクの危機を乗り越え、バーテンダーのジャックと結ばれます。

 

この映画が示したのは、セクシーさなどの女の武器だけではなく、アリの歌声のような個性、スキルと、時には頭脳を駆使して華麗にしたたかに生きていけばよい、ということではないでしょうか。

バリキャリと女の武器を使う側は互いに反感を持つのではなく、たがいに協力して、時には一人の人の中に両方の側面を持ちながら、打開すべき社会の呪いに立ち向かえればいいと思いました。

 

 

 

 

現実を克服するための創作の話──湯浅正明監督「夜明け告げるルーのうた」

一般教養の授業だったか、何かの本だったか、はたまたネットか、どこで知ったのかは覚えていませんが、印象に残っている話があります。

 

それは、既存の社会の根本を揺るがすような事象が起きると、創作人は必ずそれを自身の創作に何かしら取り込むという話です。

 

『八日目の蝉』『紙の月』など実際の事件をダイレクトにモデルにしているものや、サスペンスに「酒鬼薔薇聖斗」「少年A」を思わせるシリアルキラーなどが多く登場するようになったのも事件の影響といえるでしょう。マニアックだけれどダイレクトなものとしては、幾原邦彦監督のアニメ「輪るピングドラム」の主人公たち兄弟の両親が起こした事件のモデルは、オウム真理教の起こした地下鉄サリン事件が元ネタであると推察されます。

 

さて、四半世紀もまだ生きていない私ですが、生まれてから今までで遭遇した、一番大きな事件は東日本大震災です。まだその爪痕を日本に強く残している震災は、もちろん創作人に大きく影響を与えるものであったと言えるでしょう。

 

東日本大震災を扱ったフィクションとして、真っ先に思い浮かぶのは天童荒太さんの『ムーンナイト・ダイバー』です。

震災から四年半、かつて漁業を営んでいた主人公の舟作は、被災者団体の依頼を受けて、亡くなった人々との思い出の品を探すために深夜の海に潜ります。妻と子供は無事であったものの、家族を亡くした主人公と、それぞれ大切な人を失った周囲の人々が、生きていこうともがく、残された者の物語です。

 

始めてこの小説を読んだとき、被害に遭わなかった私でも、胸に迫るものがありました。ああ、昔きいたあの話は、こういうことなのだと思いました。創作の中に事件が写し取られる限り、事件そのものが風化したとしても、その創作を新しく手に取る人には、その事件がありありとよみがえります。

 

最近まで、震災を扱ったフィクションでは『ムーンナイト・ダイバー』がわたしの中では一番だと思っていましたが、ついこの間、新たな作品に出会いました。

 

それが、湯浅監督の「夜明け告げるルーのうた」です。

 

夜明け告げるルーのうた
 

 

湯浅正明監督によるオリジナルアニメーションです。私はアニメーションについては詳しくないのですが、湯浅監督と幾原監督が新進気鋭で独特な個性を持っているのだなあということは、門外漢でも何となく理解できます。湯浅監督は森見登美彦さん原作の『夜は短し歩けよ乙女』や『四畳半神話大系』のアニメ化の際の監督として有名です。森見さんの世界観を映像で的確に表現していて驚いたことを覚えています。的確に表現、というよりは、ものすごく相性がいいと言った方が正しいかもしれません。

 

両親の離婚が原因で、東京から父の実家であるさびれた漁村「日無町」に引っ越してきたカイ。ある日カイは動画サイトにアップしていた編曲動画をクラスメイト遊歩と国夫に発見され、その才能を見込まれてバンドに参加することになります。近づいてはならないとされている「人魚島」でバンドの練習をしていると、人魚の女の子が現れて──?というストーリー。

 

中学生の葛藤と、人魚という未知の生物との出会いと淡い恋、ジブリの「崖の上のポニョ」を連想しないでもないルーのキャラクター、と一見ありふれた映画のようですが、そこはさすが湯浅監督。独特の色彩感覚と映像表現もそうですが、なんといっても今作は音楽が物語の、そして映画全体のキーになっています。アニメーション×音楽ってこんなに人をワクワクさせるんだ!とその魅力を再発見した思いです。小さい子はもちろん、大人も単純に楽しい映画として鑑賞できます。

 

さて、こんなに楽しくてハッピーな映画が、どうして震災に関係するのかというと、理由は終盤の展開にあります。

 

踊るルーの動画がインターネット上で拡散され、好意的に人魚の存在がとらえられるようになった日無町は、人魚ランドを再建し、人魚を使った町おこしを始めます。そのセレモニーで、ルーが人気になるきっかけにもなったカイたちのバンドが演奏することになりましたが、注目されるのはルーばかり。それに腹を立てた遊歩は姿をくらましてしまいます。年配者は人魚に懐疑的な人も多く、遊歩は人魚に食べられてしまったのではないかと、人々が一気にルーの敵に回り、ルーを閉じ込めてしまいます。ルーを助けに来たルーの父親もろとも釜の中に閉じ込めたのですが、「御陰さんのたたり」で、町に海の水が押し寄せてきてしまいます。

 

「たたり」という人間にはどうしようもない理由で水が押し寄せる、という箇所に、津波を連想しました。もちろん現実の土砂やがれきを含んだ水ではなく、ただただ海水が上がってくるのですが、それだけでも、本震直後に中継されたあの津波の映像を覚えている身としては、とても怖く感じました。

 

あふれてくる水に、人々は高台を目指しますが、高齢者や家族づれなど、取り残されてしまう人々が多く出てきます。そんなとき、釜から脱出したルーと、父親の仲間の人魚たちが、人間を高台まで運び出したのです。ルーや父親は、魔法の力で海水を寒天のように操り、高台まで人間を飛ばします。他の人魚たちは、泳いで人間を運んでいきます。

 

このシーンでめちゃめちゃに泣きました。虐げた人魚たちが、それでも人間を助けてくれる、ということもそうなのですが、なによりこれが、震災の時のIFに見えてしょうがなかったのです。

もし、人魚がいたなら。

絶対にありえないことでも、願わずにはいられませんでした。これはIFであり、同時にそれが救いでもあると感じました。

 

このシーンは多くの救いに満ちています。新しいプードルを飼うためにブルドッグを捨てた男性が、ワン魚になったブルドッグに助けられたり。海で恋人を失って人魚を憎むようになったタコ婆が、恋人に再会できて人魚になったり。幼いころ人魚に目の前で母親を殺されたと思っていたカイの祖父の誤解が解けたり。

 

しかしあまりにも多い人間の人数に、人魚たちは疲れ果ててしまいます。そこに流れてきたのが、町のスピーカーから聞こえるカイが歌う「唄うたいのバラッド」です。歌に力づけられた人魚たちは、協力して町から水を取り除き、日無町にも夜明けが訪れます。

ここの「唄うたいのバラッド」も憎すぎる演出でした。斉藤和義さんによる歌もものすごくいいのですが、これまで徹底して打ち込みで音楽をしてきたカイが、自分の声で、少し拙くでも必死に歌う姿にめちゃめちゃ泣きました。

 

夜明け告げるルーのうた」は宣伝等でも(おそらく)震災を扱った物語としては語られていません。しかし、3.11の同じ記憶を共有する人にとっては、思い当たるふしがいくつもあるものではないでしょうか。

このくらいの、断定しないさりげない創作への事件の折り込みこそが、フィクションにおける現実の事件の輸入の「よいかたち」なのではないかと思いました。

直視するにはつらすぎる事件に、人間は目を背けがちです。この映画のように、さりげない寄り添い方で、しかもハッピーエンドを届けてくれる作品こそ、人々の心を癒し、事件の消化を助けるものになり得ることでしょう。

 

一過性の小説の話──古市憲寿『平成くん、さようなら』

良い小説を定義するのは難しいことだと思います。

出版社にとっての良い小説とは、売れる小説かもしれませんし、読者にとっての良い小説とは、自分に寄り添ってくれるものかもしれません。アイドルファンにとっては、推しが出版した小説が一番良い小説かもしれません。ある政治思想を持った人にとっては、同質の政治思想を持った人が書いた小説がいいかもしれません。

もしくは、より多くの種類の本に日々触れている書店員が選ぶ本屋大賞で選ばれるのがよい小説でしょうか(販促的な意味もあるとは思いますが)。そうではなく、、芥川賞直木賞のような権威ある賞を受賞するのがよい小説でしょうか。

 

今回は、日本文学において大きな権威的存在である、芥川賞の候補作であった、『平成くん、さようなら』についての話です。

 

 

平成くん、さようなら

平成くん、さようなら

 

 

果たしてこの小説がわたしにとって「いい小説」だったかどうかはいったん置いておきましょう。

 

主人公の愛は、平成元年に生まれ、いかにも「平成らしい」外見と考え方を持ち、平成を代表する文化人として活躍する恋人の平成(ひとなり)くんに、「死のうと考えている」とある日唐突に伝えられます。物語の中では、日本で安楽死が合法化されており、病気による苦痛だけでなく、精神的苦痛によってでも、医師の判断があれば安楽死擦ることは可能です。「僕はもう古い人間になってしまう」という平成くんと、恋人に死んでほしくない愛。彼らがたどり着く、いかにも現代らしい結論とは──?というのがあらすじです。

 

アップデートされた現代の死生観、介護費医療費増大の対策としての安楽死の提案がテーマになっている、極めて社会的な小説であると思います。作者も(テレビをほとんど見ない私は『平成くん、さようなら』を読むまではしりませんでしたが)テレビでコメンテーターとして活躍する古市憲寿さんであることからも納得です。

(いま改めて考えると、自分をモデルに平成くんを描いたとしたら興ざめもいいところだったと思うので、初読の際は先入観なしで読むことができてよかったと思います)

 

この小説の一番の注目すべき点は、ストーリーではなく、小説が書かれた目的ではないかと私は考えます。

 

『平成くん、さようなら』は第160回芥川賞の候補作になった作品です。第160回芥川賞は2019年一月の選考会で選ばれたものであり、次回の芥川賞は2019年の七月であることから、いわゆる平成最後の芥川賞の候補作であったと言えます。古市氏が、完全に計画的にこの作品を作り、世に出したことが明らかであると考えられます。

平成最後の芥川賞に『平成くん、さようなら』というタイトルの作品で挑むというのはあまりに挑戦的な気もしますが、受賞しなくとも氏のネームバリューと作品のキャッチ―さから、候補作になるだけでも十分注目され、「売れる」と見越した上での作品でしょう。

 

小説が書かれた目的が、「小説を書く」でなかったから、その小説が良い小説ではないというわけではありません。「売れる小説を書く」ということが目的であったとしても、その小説が人を救うこともあるでしょう。

 

しかし、『平成くん、さようなら』は、目的であろう「平成最後の芥川賞で注目を浴びること」に終始するあまり、良い小説にはなり切れなかったように思います。

特に気になるのは、キャラクターの造形と随所にちりばめられた「平成らしい」ワードの二点です。

 

まず初めに、キャラクターについて。『平成くん、さようなら』の主たるキャラクターはやはり、平成くんと主人公の愛の二人です。平成くんは長身で重たい前髪、眼光の鋭い目という見た目を持ち、極めて論理的に物事を考える人物として描かれています。外に出るときも、パスケースにクレカを二枚と、一万円札を三枚持つのみ。想像するとしたらRADWIMPS野田洋次郎さんか、米津玄師さんなど邦ロックのボーカルにいそうな見た目でしょうか。下北沢にもたくさん生息していそうです。

確かに、そのような見た目の若者は多いかもしれません。SNSでの飲み会を嫌う風潮を見ると、ドライで、論理的なのが平成に生まれた若者の傾向というのもわかります。しかし、それはあくまでよくいるというだけで、「平成らしい」を集めたらそれだけで人物像が形成できるわけではないと思うのです。

「平成らしい」若者たちを符号にして集めてみたのが平成くんかもしれませんが、符号は元をたどれば個々の人間であり、彼らには平成らしくない面も、生の感情も持っているはずです。平成くんを平成らしく描こうとするあまり、人間的な部分が欠落してしまったのではないかと思いました。

平成くんの人間らしい(?)本当の死にたい理由を印象付けるために、それまでの平成くんを人間離れた存在として描いているのかもしれませんが、この流れではあまりに平成くんの本当に死にたい理由が陳腐に感じられました。『君の膵臓をたべたい』のヒロインが死んだ理由と同じくらい、私にとっては陳腐でした。

 

また、平成くんに死んでほしくないと思う恋人の愛についても引っ掛かりを覚えました。自分の話になってしまいますが、私も一時期愛と同じような、死にそうな恋人を止めたことがありました。なので、共感して読むことができるのではないかと期待していたのですが、残念な結果に終わりました。愛の「思い」の部分が見えず、途中で何度もこの子は本当に平成くんに死んでほしくないと思っているのかなと首をかしげました。

愛はラストへの伏線である「ねえ、平成くん」という呼びかけをする道具として、また、安楽死が合法化された日本の説明と、いかに平成くんが「平成らしい」かという説明に利用され消費されたキャラクターのように感じるのです。

 

 

次に、頻出する「平成らしい」ワードについてです。この小説にはいたるところに固有名詞が登場します。平成くんの着ている服は毎回ブランド名(ドリスヴァンノッテン、メゾンマルジェラ、サカイ……)が出てきますし、ゲームの名前しかり(Switch、FGO)、映画の名前しかり(リメンバー・ミー、君の名は)。いい加減くどいわ、と冒頭三ページで思ってしまいましたが、ほぼ最後まで固有名詞攻めが続きます。

極めつけは、愛が平成くんの昔からの友達に会いに行ったこの場面。

 

しかしどうしても集中できずに、このカフェでの喧騒音がやたら耳に入ってきた。今日の5限さぼっていいよね。経済原論のレジュメ貸してもらえる?8年越しの花嫁で泣いちゃった。レジが9時から入ってるんだよね。アンナチュラルの主題歌って誰が歌ってたっけ。

 

ここで冒頭に戻りますが、ある出版社の編集の方にお話を聞いた時に、「いい小説とは普遍性を持つものだ」とうかがったことがあります。さて、この小説は果たして普遍性を持つものでしょうか。

私は再読するまで「8年越しの花嫁」という映画があったことを忘れていましたし、「アンナチュラル」がいくらバズッたドラマだからだと言って、一年に四クールあってそのクールの中でも十何本作られるであろうテレビドラマの一本を、十年後の人が読んだところで誰が覚えているでしょうか。(編集者の方がおっしゃった「普遍的なもの」はもっと本質の部分での話かもしれませんが)読者として「ん?なんだこれ」と読んでいて悪い意味で引っ掛かってしまう障害はわざわざ設置しなくてもよいと思うのです。

というか『平成くん、さようなら』は平成を代表するというよりは、あまりに古市氏が小説を書いた時に話題になっていたものを詰めました、という感じがありありと察せられます。

 

と、いうわけで『平成くん、さようなら』は私にとっては良い小説ではありませんでしたし、もう再読することはないのではないかと思います。チャレンジとしては面白くなくもないので、平成が終わる前に一読してみてはいかがでしょう。令和になってからでは、平成くんの言うように「終わった存在」になってしまうでしょうから。

 

 

元カノ殺す界隈におくる、戦闘力のある本の話──綿矢りさ『かわいそうだね?』

「元カノ殺す界隈」、とは何ぞや?という方も多いかと思います。

初っ端から物騒な単語を繰り出してしまい、失礼いたしました。

そして、元カノ殺す界隈のみなさま、ごきげんようTwitterにそれ専用のアカウントは持っていないものの、いつもひっそりと皆様のツイートに共感してます。界隈の端っこに存在しているつもりの人間です。

 

幸いなことに、元カノ殺す界隈に縁がなく、存在を知らないという人のために紹介しておきますと、Twitter上で彼氏もリアルの友達も知らないアカウントで日々彼氏の元カノを呪い、それを共有する界隈のことです。改めて書くと魔女っぽさがありますね。

界隈の民のアイコンはなぜかセーラームーンなど昔のアニメの画像やイラスト屋が多く、彼氏に浮気された界隈と親和性が高いように思います。

 

元カノ殺す界隈は、常に彼氏の元カノの影におびえています。元恋人なんて縁が切れていれば気にすることないでしょう、と思うかもしれませんが、ふとした時に彼氏の周辺に姿を現すやつ、それが元カノ……!成人式や同窓会、共通の友人の結婚式など、昔の元カノと遭遇するチャンスはごまんとあります。

もしくは元カノの方にそんな気はなくても、彼氏にふとした時に元カノの話をされたり、元カノと比べられることがストレスになり界隈に所属している人もいます。また、あまりにも彼氏が好きすぎるあまり、一人で暴走してしまうことも。

 

そんな元カノ殺す界隈の端くれの私が今日紹介したいのは、純文学です。元カノ殺す界隈と純文学の親和性は低そうですが、ところが、作者の方が(私が思うに)元カノ殺す界隈に以前生息していたとしてもおかしくない!という本を見つけました。

 

それが、綿矢りささんの『かわいそうだね?』です。

 

かわいそうだね? (文春文庫)

かわいそうだね? (文春文庫)

 

 

先に書いておくと、この本が元カノ殺す界隈の特効薬になるとは思っていません。もしかしたら読んだらさらに病んでしまうこともあるかもしれません。それでも、私の友達が元カノ殺す界隈で苦しんでいたら紹介したいと思います。あくまで自己責任でお願いいたします。

 

百貨店勤務の樹理恵の彼氏の隆大は、アメリカ帰りのちょっと無骨で不器用な人。幸せに過ごしていた二人だったが、ある日樹理恵は、隆大に元カノのアキヨが東京で就職が決まるまで隆大の家に置くことになったと告げられる。隙なく完璧な樹理恵と、ファッションやしぐさから隙だらけのアキヨ。元カノVS今カノの戦いの果てに待つものは……?というストーリーです。

 

以下ネタバレになりますので、未読の方はご注意ください。

 

隆大とアキヨがアメリカに長くいたこともあり、文化の違いだと解釈してみたり、両親との縁が希薄なアキヨの境遇に同情することでやりすごしてみたり、と隆大を困らせないようにいい彼女になるため、自分をどうにか納得させようとする樹理恵がいじましく感じます。決して最初から元カノが憎かったわけではなく、徐々に降り積もる違和感が少しずつ樹理恵の首をしめていきます。それでも彼女は28歳の女性らしく、それでも大人としていようとします。

しかし、くせ者なのがアキヨです。しびれを切らした樹理恵がアキヨと隆大が二人で暮らすアパートに突撃した時は、「絶対ヨリをもどすことなんてない」と言っていたのに、一向に彼女の就職活動は終わらず、なかなか隆大の家を出て行きません。それどころか、旅行中に樹理恵が隆大の携帯を盗み見ると、アキヨは30歳だというのに、そこには絵文字や小さい「ゅ」「ょ」などを多用したうっとうしいメールの数々が……!

すわ最終決戦、と樹理恵が再度乗り込むと、すっかり自分色に染め上げた隆大の部屋で、アキヨは樹理恵にこれまでとは打って変わって、年相応の低い声で「あなたのことなんて本当に興味がない」と言い放ちます。

それまで「アキヨの境遇はかわいそうだからしかたがない」「私の彼氏は優しすぎるからしかたがない」と言い聞かせてきた樹理恵は、思考の根幹が間違っていたことに気づきます。「かわいそうな人などいないのだ」と。アキヨはかわいそうに見えるその状況を利用し、欲しい男を狙っていただけだったのです。

 

アキヨは、そんなことなどできはしなそうな隙だらけで頭が軽そうな女性として描写されています。

彼女は薄いピンク色のブラウスに、濃いベージュのすそが広がったスカートを穿き、ひもの切れそうなミュールを素足にひっかけていた。三十歳にしてはだいぶチープな身なりだった。長い薄茶の髪は根本が黒く、毛先が痛んでいるのかスカート同様に広がり、化粧は薄く、しゃべりかたは舌ったらず。 

 (綿矢りさ 『かわいそうだね?』 pp.25 2013 文春文庫)

 

いるいるいるこういう人!!と思わず前のめってしまいそうになる描写です。女性の目から見ると少しだらしなく見えるけれど、男性からしたら守ってあげなきゃと思わせるやつ。同性の友達が少なくて、だいたいオタサーの姫のごとく囲われているか、彼氏にべったりとついて離れないやつ。絶対に彼氏に紹介したくないやつ。そして、絶対に元カノとして対峙したくないタイプの人間です。

 

樹理恵は最後に悟りますが、敵であるアキヨがこのような女であった段階で、しっかりして美しい樹理恵は負けているのです。20代の貴重な時間を無駄にしたくなくば、おそらく引くべきだったでしょう。しかし引き際を間違えた樹理恵が、最後に取る行動も痛快です。男なしでも女は強く生きていける。綿矢りささんのテーマが強く表れている一冊だと思います。

ホラー初心者がホラー小説を読んだ話──鳥谷綾斗『散りゆく花の名前を呼んで、』

人にはそれぞれの趣味嗜好があるように、好む本も様々です。

 

小説、実用書、絵本というジャンル分けの中に、さらに小説であればミステリ、ファンタジー、時代小説、純文学とさらなるジャンルがある中で、そのすべてを網羅しているという人はおそらくいないのではないでしょうか。

私もミステリ、恋愛小説、ファンタジー、純文学あたりはたしなみますが、お仕事小説、時代小説、ホラーあたりには縁がありませんでした。

宮部みゆきさんや辻村深月さんが好きなので、『チヨ子』や『ふちなしのかがみ』は呼んだことがあるのですが、理不尽に恐怖に追い立てられるホラーらしい小説というよりは、読んだ後にほっこりする系なので、ノーカンということで。

 

食わず嫌いはよくないよね!ということで今回はホラーを読んでみました。それが鳥谷綾斗さんの『散りゆく花の名前を呼んで、』です。

 

http://j-books.shueisha.co.jp/books/chiriyukuhananonawoyonde.html

 

æ£ãããè±ã®åãå¼ãã§ã

 

いつもはアマゾンのリンクを貼っていますが、今回はアマゾンにはないようなのでJump J Booksのリンクと書影を貼っておきます。

 

サイコメトリー能力を持つ未来(みら)は教育実習生として母校を訪れる。ホラー映画研究会の顧問として生徒たちと親交を深めるも、その部員たちが奇妙な死を遂げる事件が次々発生。事件のカギを握る「キラズさん」とは?未来は生徒たちを守れるのか?

 

というストーリー。

流行りの「キラキラネーム」やいじめなど「教育現場での課題」、「虐待」などキャッチ―なモチーフが多く使われていますが、物語の中にそれぞれきちんと意味を持って登場しています。

 

もちろん一冊読んだだけではホラーの何たるかがわかるとは思っていません。あくまで普段ホラー読まない種類の人間が一冊気まぐれに読んでみたら、こんな感じのことを考えたよ、というだけのものを以下に列挙していきます。以下ネタバレも含みますので、未読の方はご注意ください。

 

 

ホラー+αの要素がある

例えば、軍事モノ×恋愛である有川浩さんの『塩の街』など自衛隊三部作や、映画でもSFファンタジー×恋愛の「君の名は。」などのように、いくつかのジャンルにまたがって存在しているものがあるように、ホラー×αも存在します。

今回の『散りゆく花の名前を呼んで、』はホラー×ミステリ(×恋愛)でした。この掛け算はあまり増えてしまったり、割合を誤るとごちゃごちゃとした作品になる印象ですが、この作品は適切な割合でホラーとミステリが混ざり合い、スパイスとしての恋愛がきいていたと思います。(職業倫理的にどうなのというのは置いておいて)

 

死んでいく生徒たちにはそれぞれ殺される理由があり、怪異にもきちんとした理由付けがされ、主人公の未来がそれを解明すべく友人のつてを頼ったり、調べ物をしたりと、きちんと手順を踏み、謎を解いていきます。伏線もきちんと張られているのである程度予想を立て、ミステリと同じような楽しみ方ができました。未来のサイコメトリー能力が万能であったら踏まなくてもいいプロセスではありますが、万能ではない能力というのも一つ、物語の重要な要素になっています。

 

怖いもの見たさで楽しめる

ホラーなんだから当たり前でしょう!と言った感じですが、お化け屋敷やホラー映画以上にホラー小説は怖いもの見たさで気軽に楽しめるコンテンツなのではないかと思いました。

お化け屋敷やホラー映画は視覚的な要素が強く、「体験」的なものです。それゆえ、見た後に暗闇に影が見えるような気がする、お墓の前を歩くのが怖いなどの後遺症(?)に見舞われることになります。

 

しかしホラー小説であれば、体験しているのはあくまで登場人物であり、実際に目にしているのは文字の羅列なので、視覚的な怖さではありません。情景描写なども脳内で再現するものなので、怖い部分は読み飛ばしてしまえ、と意識すれば、怖がりな人でも最後まで読み切ることも可能ではないでしょうか。

ただし、想像力が豊かな人や、視覚以外の感覚を強く持っている人にとってはお化け屋敷やホラー映画より怖い、諸刃の剣かもしれませんね。

 

 

 

以上、ホラー小説を普段読まない人間が読んでみたら思ったことをふわっと書いてみた話でした。

 

 

主人公としての資質の話──吉本ばなな『N・P』

こんにちは。いつも前置きが本編ですと言わんばかりに長くなってしまうので、今日はダイレクトに本の話に入ろうと思います。

 

吉本ばななさんの『N・P』を読みました。

 

N・P (角川文庫)

N・P (角川文庫)

 

 吉本さんがあとがきで

そしてこの作品には、今までの私の小説のテーマすべて(レズビアン、近親者との愛、テレパシーとシンパシー、オカルト、宗教 etc.) をできるかぎりこの少ない人数、小さな町内につぎこんだおかしな空間がつまっています。

 (吉本ばなな 『N・P』pp.223 1990 角川書店

と書いているように、ばななワールド全開のお話です。

 

主人公の風美は、高校生時代に庄司という翻訳家の男性と付き合っていたが、庄司はある男性作家の、父と娘の近親相姦がテーマである、98話目の短編小説の和訳を試みる最中に自殺をしてしまう。時は流れ、大学の研究室に務めるようになった風美は、男性作家の忘れ形見である男女の双子と出会う。ほど近いところに暮らしていることや、昔一度庄司とともに出席した出版社のパーティーで顔を合わせていたこともあり、親しく交流することになるが、やがて風美は98話目の深い業に巻き込まれていくことになる──というストーリー。

 

以下ネタバレになります。未読の方はご注意ください。

 

小説家の高瀬皿男とその忘れ形見である、双子の姉の咲と乙彦、そして98話目のモデルとなった腹違いの兄弟「萃」の人生はそれはそれはドラマティックなものです。

特に萃はとびぬけて数奇な運命を背負っています。放蕩気味の母親と高瀬氏の間に生まれた萃は、思春期のある時、実の父親である高瀬氏と関係を持ち、98話目の父と娘の近親相姦の話のモデルになります。その後、主人公の昔の恋人でもある庄司と付き合い、そして今現在は腹違いの兄弟である乙彦の6年来の恋人となっています。

 

実の娘と寝て、小説のモデルとした高瀬氏も、義理の姉と関係を持つ乙彦も、そんな身内を抱える咲も、98話目を当時交際していた萃に手渡され翻訳を試みるも自殺してしまう庄司も、一つの物語の主人公となり得る業を背負い、「物語」を生きています。

 

劇的な人生を送る登場人物の中で、ただ1人、個人として劇的ではない人物が、主人公である風美です。高校生と時に17も年上の庄司と付き合い、死別するという人生イベントはあっても、その他の人物の深い深い業に比べてしまえばパンチが足りず、また、風美も元恋人を亡くしたことについて劇的と感じてはいません。

 

風美は、それ個人としては決して主人公足り得ない人物ですが、人物関係を視野に入れれると、視界が一転します。

庄司という昔の恋人を萃と共有しており、咲と同じ大学内に務める親しい友人関係で、極めて独特な個性を持つ萃とも友人関係を構築します。乙彦とは咲や萃との関係もあり、つかず離れずな距離を保っています。

 

ラストで、乙彦の子を身ごもった萃は、風美に毒を飲ませ、心中(とはいっても風美を殺すつもりはなく、淋しくないように死ぬまで隣にいて欲しかった)を試みます。しかし風美は薬を盛られても、意識を保ち、萃の自殺を止めるに至ります。萃は風美や乙彦たちの前から姿を消し、手紙に「結婚を望んでくれる男性と一緒になる」と記します。

 

このひと夏の物語は、風美がいなくても、例えば乙彦や咲や萃が主人公になれば起こったことでしょう。しかしその場合は、確実に萃は死んでいました。もしくは、風美が作中で何度も心配しているように、乙彦と心中してしまったかもしれません。98話目いかかわった人々はみな自ら死を遂げるという呪いは、解けなかったかもしれません。

 

風美がかかわった場合の物語でも、萃は結局生きているのか死んでいるのかは、読者の想像に任せられると思います。しかし、「母親は失踪だからまだ希望を持ってしまう。いっそ死んだという方がはっきりする」と考えていた萃が、死ではなく、姿を消すことを選んだ、選べたということが、一人では主人公足り得ない風美の、主人公らしい一番の役割なのではないかと考えました。風美は、98話目の呪いを砕くことができたのです。

 

ちなみに私は手紙の文面から、萃は生きていると考えます。

 私は、乙彦の子を育てる。それは多分必死で。うまくいけばそのうち幼稚園にやったり、成人式をやったり。女の子だといいな。咲は研究を続ける。乙彦はやっと普通の頭に戻る。

 そして私は、ポストを見る度永久にあなたを思い出す。

 続いてゆくことばかりです。

 もうお会いすることもないかと存じます。

 どうぞお元気で。

 でも、いつかまた。 

 (吉本ばなな 『N・P』 pp.208-209 1990 角川書店

 

育児は、精神不安定な萃にとって、容易なことではないでしょう。時に、死んでしまいたくなることもあるかもしれません。あの時子供もろとも死んでしまわなかったことを後悔するかもしれません。しかし萃には風美がいます。そばにいなくても、ポストを見れば思い出す、ひと夏の奇妙な友人がいます。「ポストを見る度永久にあなたを思い出す」と手紙に書かれたら、風美も萃を忘れることはないでしょう。

 

同様に、劇的ではない人生を送っていたとしても、人間関係の上に物語があるのなら、私たちも日々人をすくい、許し、また許されている、登場人物なのかもしれません。(と、乱暴にまとめてみました)

以上、物語の主人公についてでした。

政治的正しさと小説の話──雪舟えま『緑と楯 ハイスクール・デイズ』

「ポリティカルコレクトネス」という言葉をご存知でしょうか?

日本語だと「政治的正しさ」と訳されるものです。

 

ポリティカル・コレクトネスpolitical correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、性別人種民族宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正中立な言葉や表現を使用することを指す[1][2][3][4]政治的妥当性ともいう [1]

Wikipedia 「ポリティカル・コレクトネス」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9 最終閲覧日 2019年4月3日)

 

例でよく取り上げられるのは黒人に対しての呼称を「ブラック」→「アフリカンアメリカン」とすることで、差別的な意味合いを取り除くという実際にアメリカで行われたものでしょうか。

日本でも、「障害者」→「障がい者」や「看護婦」→「看護師」などの言いかえがなされています。

 

全ての言いかえが必要なもの、差別をなくすために効果のあるものだとは一概に言えないかもしれませんが、まだ、この範囲であれば、理解も及ぶし納得もいくものだと考えます。

 

しかし近年、ポリコレに妙な動きが出ています。

人気モデルの白人女性が、黒髪のウィッグを付けて和装で、日本でロケ撮影を行ったことに対して批判を浴びたというのです。

 

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1779780.html

https://www.huffingtonpost.jp/2017/02/16/vogue_n_14788604.html

日本人は当たり前に洋服を身に着け、結婚式にはドレスも着ます。Instagramでは、韓国観光で伝統衣装のチョゴリを身に着けた女子大生たちの写真がよく見られます。

 

それなのになぜ、侮蔑的な意図もなくただ他の文化のオマージュを行っただけで、「人種差別」と言われてしまうのか。

「白人」が「アジア人」の格好をしたことが、「文化盗用」「cultural appropriation」として問題になっているようです。しかし、ネット上の反応や、私が一日本人の目線から見ても、別に問題はないのではないかと思ってしまうのが、日本国外(特に欧米)と国内とのギャップを感じさせます。

 

ポリコレはある程度は必要かもしれませんが、行き過ぎたものは文化を殺してしまいかねないのではないかと考えます。

 

そんな、時に行き過ぎた優しさや配慮、潔癖さを持つポリコレですが、小説の世界には必要がないのではないかと私は考えています。ある社会に所属する人間が生み出すものだからこそ、小説には世相が映ります。その程度の映り込みのポリコレは、存在しても問題ないでしょう。しかし、物語の中で過激に政治的正しさを追求すれば、言葉狩りにもつながってしまいます(図書館戦争を彷彿とさせますね)

 

不穏な前置きになってしまいましたが、雪舟えまさんの『緑と楯 ハイスクール・デイズ』を読みました。いったんポリコレは脇において説明をすると、男子高校生二人のピュアな恋愛小説です。

 

 

緑と楯 ハイスクール・デイズ

緑と楯 ハイスクール・デイズ

 

 

 

優等生でどこか冷めたところがある兼古緑は、人気者でマイペースな萩原緑と卒業までかかわりたくないと思っていましたが、ある日担任から病欠している緑の様子を見に行くように頼まれます。いつも誰かと一緒にいる楯と、ふたりきりで時間を共有した時、緑の心にこれまでにない気持ちが生まれて……?

 

という、どこか少女漫画めいた導入で、その後もさわやかでじれったくてこれぞ青春と言わんばかりです。以下ネタバレ(というか人によってはネタバレと思うかもしれない)のでご注意ください。

 

 

機能不全家族に生まれ、両親の間を取り持つべく生きてきた緑と、家族や友人に愛されている楯という組み合わせがとんでもなく刺さります。誰かに愛されたい、特別だと言ってほしいと苦しむ緑を愛するのが、他の人からの愛を一身に受けてきた楯なのです。

私も機能不全家族に生まれた身なので、それはそれは緑に感情移入して読みました。

 

世界観も独特で最高です。物語の舞台は未来東京。緑がアルバイトをしているのは、なんと葬式のための飛行船(地上で遺族たちが立食パーティーをしているところに、船内で火葬した故人の遺灰をまくという、なんとも未来的な形の葬式になっているそうな)。未来浅草の隅田川の上を、飛行船がいくつもぷかぷか浮かんでいる光景を想像すると、うっとりしてしまいます。

雪舟さんの小説の登場人物は、名前が独特なことも、作品の雰囲気を作り上げてると思います。中学の同級生に名字が「楯」の子がいましたが、名前で「楯」は聞いたことがありません。「緑」というのも女性の名前では多いかもしれませんが、男性名では珍しいのではないでしょうか。楯の母親で、名前が独特な「べべさん」が語る楯の名前の由来も素敵です。

 

この小説がどうポリコレにつながるのかというと、同性愛者を描いた物語だということです。商業BLは今や一大ジャンルとして発達しています。私が書店で働いていた時も、よく売れていた印象があります。

今のところはあまり見かけませんが(私の知らないところで問題になっているのかもしれないけれど)、ポリコレの考え方がより日本に輸入されてきたら、BLの立場も危うくなってしまうのではないかと思うのです。もちろん自分が同性愛者でBLをたしなむという方もいるとは思いますが、BLを好む人の中で言えば、割合は異性愛者が多くを占めるでしょう。社会でのマジョリティも異性愛者であり、異性愛者が同性愛作品を書く/読むのは、同性愛者に対する搾取であるという言説が生まれてもおかしくありません。

 

私の知り合いの同性愛者の方に、BLについてどう思うか聞いてみたことがありますが、あくまでその人は「別にいいと思う。気にならない」と答えていました。しかし、上に挙げた例と同じように、当事者が気にしなくても、政治的正しさは関係なく迫ってきます。

 

しかし私は、これは違うと思うのです。

 

多様性が叫ばれる中、LGBTsもカミングアウトをするだのしないだの取り上げられています。しかし本来であればカミングアウトはしたくなったらすればいいだけの話で、されたとしても「そうなんだ」で終わるべきだと思います。

LGBTsの恋愛も、異性愛も、どちらも恋愛というくくりのなかの一つにすぎません。

社会でも、小説の中でも、あえてBL、GLというくくりを持つのではなく、本の中にいろんな恋愛の種類がある、それでいいじゃないかと思うのです。どの立場の人が、どの立場の恋愛小説も楽しんで読めるというのが、理想的なあり方ではないかと思うのです。もちろんすべてを楽しまなくてはいけないということではなく、楽しみたいものを楽しむというスタンスで。

 

そういった意味で、『緑と楯』は衝撃的というか、理想的な作品でした。

表紙はタイトルを挟んで目を合わせる二人の男子高校生が描かれ、帯にはあらすじと紹介。そのどれからも「BLを売りにしている」「同性愛を扱っている」ということに対するアピールは見て取れませんでした。かろうじて、帯の「未来東京に生きる二人の男子高校生。じれったいほど凸凹で、照れくさくなるほど、ピュアな恋の軌跡!」とあるところから、ああ、男子高校生二人の恋愛ものなのだな、と思う程度です。

 

また、内容も2040年代の未来東京が舞台だからかもしれませんが、同性愛であることへの引っ掛かりのようなものは感じられませんでした。緑は楯への気持ちを自覚した時に、自分が同性愛者であることに葛藤したりしませんし、楯も緑の気持ちを当たり前のものとして受け止めます。また、楯の友人である女子高生が、将来の希望を語るときに「私は月でB・L(ブルーラブ)小説を書く」と答えます(BL小説と同義)。現在では腐女子として、隠れた存在とされていますが、未来ではイケイケ女子高生が堂々と語ることができるものとして扱われています。

これこそが、未来のあるべき形なのではないかと考えました。

もちろん雪舟さんがそこまで意図したわけではないかもしれません。しかし社会を映す小説が、このように少しずつ変化していけば、ポリコレに負けることなく、むしろ社会がそうなる前に先に理想的な形を世に示していけるのではないかと思うのです。

 

以上、小説に可能性を感じた話でした。いつも以上に乱文失礼いたしました。