ひつじの絵をかいて!

いろいろ拗らせた本の虫女子大生の独り言。すべては主観であり、個人的な意見です。

みんな少しずつ欠けている──彩瀬まる『骨を彩る』

私の中で、いつも、骨みたいなものが、足りなくて」 

(彩瀬まる『骨を彩る』、幻冬舎、2017年、p.113) 

 

自分の中に欠落を見出したのは、いつのことだったでしょうか。その欠落のことを思うと、何者にもなれない自分が少しだけ特別なものになれた気がしました。クラスで目立つあの子も、スポーツがよくできるあの子も、持っていない欠落。持っていないことが少しうらやましくて、だけど少しだけ勝った気がしました。自分が今だけは、世界で一番不幸になれた気がしました。

 

一番その欠落を憎んで、でも拠り所にしていた時期はとうに過ぎましたが、私はまだしっかりその欠落を大事に抱えています。

 

彩瀬まるさんの『骨を彩る』を読みました。

 

骨を彩る (幻冬舎文庫)

骨を彩る (幻冬舎文庫)

 

 入っているお話は独立した短編ですが、その中の登場人物はリンクしている連作短編になっています。

 

どのお話にもどこかに欠落を抱えた登場人物とその周囲の人が登場するのですが、私の好きだった話は、三作目の「ばらばら」と五作目の「やわらかい骨」でした。

 

「ばらばら」の主人公・玲子は、友人目線の「古生代のバームロール」では運動も勉強もよくできてリーダーシップがあり、現在はキャリアウーマンとして働く傍ら、家庭も持っている”よくできる人物”として描かれています。

 

しかし玲子の一人称視点「ばらばら」ではその印象はかなり異なるものになります。

 

玲子の母親は玲子の遺伝子上の父親と離婚し、玲子が小学五年生の時に再婚します。しかし玲子は、元の父親と母親が別れてしまったことについて、「お芝居が終わらない」と消化しきれずにいました。新しい父親に対してはうまく受け止めることができず、父親面するその人に、玲子は反発します。また、再婚先で編入した小学校で玲子はいじめに遭います。その後はうまく立ち振る舞い、優等生でしっかりした女性として玲子は結婚し、子供を授かります。しかし小学生になった息子・芳之がいじめに遭っているであろうと気付くのですが、玲子は芳之に強く当たり、「おかあさんがこわい」と泣かれてしまいます。それを見かねた夫が玲子に自由な時間を取ることを勧め、玲子は仙台に、実の父親の墓参りに訪れます。玲子はその地で自分の気持ちと過去と向き合い、再婚した義父のやさしさに気づくに至ります。(ぜんぜんあらすじ上手くまとめられませんでした)

 

印象的だったのは、玲子が夫に旅先からの電話で語るシーンです。

 

「私の中で、いつも、骨みたいなものが、足りなくて」(中略)

「肋骨が一本足りないとか背骨が一本足りないとか、そんな感じで。別にやってはいけるんだけど、たまに、あ、ないなって。なんでか昔から、すかすかして、落ち着かなくて。足りないものを、補うみたいに、いつも力がはいって、て」

 玲子ちゃんはしっかりしてる。玲子ちゃんは頼りになる。玲子に任せれば安心。玲子はうちらと違うから。玲子、玲子ちゃん。

「いつか足りる、この変な状態が終わるって、ずっと思って待ってるのに、終わらないの」

(彩瀬まる『骨を彩る』、幻冬舎、2017年、p.113) 

 

玲子の話に理解を示した夫を玲子は疑いますが、夫は実家の不仲のことを玲子に打ち明けます。玲子はその後、旅の過程で自分の思いを消化するに至ります。

 

このシーン、この玲子の訴えに、私は共感すると同時に少し自分にがっかりしました。玲子の語ったそれは、私が大事に抱えていた欠落にはまる、ぴたりと同じかたちをしていたからです。私の欠落は何か特別なものなのではなく、シチュエーションは違えど、みんなどこかで経験しているものでした。私が嫌いなあの子も、どうでもいいと思うあの子も、自分の中に欠けている部分に気づいていて、そのパーツを探しているのかもしれないし、すべてわかった上でそんなものはどうでもいいのだと笑い飛ばしているのかもしれない。

 

おそらく、欠落に気づいたその瞬間の私は、その欠落を大事なもので珍しいものだと思わなければやっていけなかったのでしょう。

 

でも、それから少し成長して、この本を読んだ私は、自分の欠落のふちをなぞって慈しみながら、欠落を抱えているかもしれない他人を大事に思えるようになった気がしています。

完璧には寄り添えない、人間と人間同士のすきま──彩瀬まる『朝が来るまでそばにいる』

 

 

彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』 を読みました。

 

 

 

 

朝が来るまでそばにいる

朝が来るまでそばにいる

 

 

 

ほの暗い雰囲気の短編集で、どの話にも幽霊や怪物が登場するし、ホラーに分類されてもいいくらいのダークさなのですが、その反面、どの話にも必ず愛が織り込まれていてとても好きでした。愛の形は必ずしも男女の性愛だけではなくて、友愛から家族愛まで、少しゆがんでいても、当人には切実すぎる愛が暗さの中に、救いのようにちりばめられていました。

 

私が特に好きだったのは五番目の短編「明滅」です。

奇抜なモチーフやフェチズムあふれる話が詰まった本書の中では比較的地味な短編化もしれませんが、どうしようもなく惹かれる部分がありました。

 

ある予言者がネット上で予言した日本沈没の前日、今村は妻の絵里子とともに趣味の家具づくりに精を出します。その休憩中に、今村は妻にこれまで誰にも話していなかったことを話します。今村は中学生のころ川に流され助かった体験があるのです。その時に感じたのは死への恐怖より、遠ざかることへの恐怖でした。今村は助かりましたが、同じ日に川に流された友人の母親は見つかりませんでした。今村は流された自分の体験から、彼女が遠い真っ暗な場所で途方に暮れているのではと想像し、恐怖を抱いていました。

今村にとってそれは切実な恐怖でしたが、絵里子からは淡白な反応しか返ってきません。

 

その夜、夕食を食べながら、絵里子は幼稚園の頃に好きだった泥遊びの話をします。それは何か絵里子にとっての切実な話ではありましたが、今村は絵里子が求めていたであろう反応を返すことはできません。

 

就寝前に今村は思いを巡らせます。

月日は流れ、背だって随分伸びたのに、未だに大鐘に似た川の音が鳴りやまない。それでも生き続けていたら、いつかこの黒い水流を打ち砕くものに出会える、この救いのない場所から連れ出されると、心のどこかで信じていた。

 けれどそれは、妻に求めるものではなかった。当たり前だ。人間一人には乱暴すぎる問いだ。予想通りの反応がなかっただけなのに、どうして俺はこんなに気落ちしているのだろう。 

(彩瀬まる『朝が来るまでそばにいる』、新潮文庫、2019年、pp.190-191) 

 

多分誰しも、今村にとっての川のように、絵里子にとっての泥遊びのように、消化したい記憶を、救ってほしい気持ちを抱えて生きています。

 

特に私のような物語を多量接種した人間は、今村のように考えてしまうのです。この、他の人には見せることのできない暗くて重たい記憶から、救ってくれる人が現れるはずだと。もしくは、今現在付き合っている恋人こそが、私の闇の部分を受け止めてくれる人なのだと。

 

ヒロイン、もしくはヒーローが暗い過去を持ていて、相手がそれを受け止めることで成り立つ恋愛の形は少女漫画の定石といってもよいでしょう(だからといって少女漫画が薄い、などというつもりは毛頭ありません)。つい私はそれを現実に当てはめてしまう。彼の存在理由を、私を救うためだと勘違いしてしまう。

 

でも、人間はみなそれぞれ別の人生を生きていて、別々の体験をしているために、誰かに100パーセント共感できることなどないのです。私にとって切実なこの問題は、誰れかにとっては本当にどうでもいいことであったりします。

 

ここでめちゃめちゃ自分を語りますが、私は死が怖くて怖くてたまりません。自分が死ぬこともそうですが、特に他人が死んでしまうこと、もう二度と会えないし話せない、伝えたいことを伝えられないというのが、理解の範疇を超えてしまっているかのごとく、つらくて悲しくて仕方ありません。私は親戚が少なく、物心ついたときから身近な人を亡くしたことがないのが原因の一つと考えられます。

 

反対に、現在付き合っている人は、生きることが怖いのだそうです。私とは反対に、身近な人をたくさん亡くした彼は、朝になると生きなくてはならないことに絶望するのだそうです。そんな彼は、スマホにざっくりとした残りの寿命が表示されるアプリを入れて、たまに眺めています。

 

ある夜、とある出来事がきっかけで、私は周りの人が死んでしまうことが怖くて怖くて涙が止まらなくて、眠れなくなりました。彼に電話すると出てくれたのですが、一向に話しはかみ合いません。それはそうです。私にとっての死は絶望であるのに対して、彼にとっての死はある種の救いでもあるのですから。

それでも、一つも分かり合えなくても、彼はぐずぐず泣いている私を慰めてくれたし、私はそのおかげで眠りにつくことができました。

 

ままならないけど一緒に生きる。人が分かり合えないということに対する今のところの私のアンサーはそれです。

 

彩瀬まるさんは、物語の中でそれより優しい、力強いアンサーを、絵里子に代弁させていました。電車で読みながら泣いたくらいの名文だったので、ここでは引用しません。どうか本を手に取って確認してみてください。

 

この短編集の中の、最初の作品「君の心臓をいだくまで」でも人間同士の合わない心のパーツの話が、温かい形で登場します。

話の表面的な恐ろしさやグロさではっきりとは見えませんが、彩瀬さんはとっても優しいお話を書く優しい人なのだと思っています。

 

彩瀬さんのお話に触れた後でなら、醜い怪物の自分を許してもらえるかもしれない。怪物になったあの人を許してあげられるかもしれない。私は本気でそう思います。

 

一直線じゃない「進化」と就活──池澤夏樹『科学する心』

就活がしたくない。 

(この下はもう全然読まなくていいです、ただの愚痴なので)

 

びっくりするほど就活がしたくない。このまま穴掘って寝たい。本読んで映画観てマンガ読む高等遊民になりたい。就活したくない。したくない、就活。

 

私は現在大学三年生です。

新卒採用は一応経団連に「三月からだよ、抜け駆けはしちゃだめだよ」と企業は縛られてはいるけれど、優秀な人材よより早く確保すべく、年々就活は早期化しているらしいです。

いわゆる早慶とか「上の方の大学」の方が早期に就活に取り組む人が多いらしいんですけど、例にもれず私の周囲も就活就活でそわそわし始めています。というか乗り遅れてたらしく、もう5月6月からがっつりやってる人もいるみたいでした。

で、現在大学三年生の夏休みが半分以上過ぎたところですが、私はもう就活に飽きました。というかちゃんとやってすらないです。インターン何個か出して何個か受かったけど、もうマイナビ開きたくないです。

 

なんでこんな急に疲れてしまったのか。一応考えてみたんですけど、たぶんそれは

①インスタのストーリーで「インターン帰りにご褒美♡」とかTwitterで「グルディスで無能が~」とか見て、行動していないくせに心が折れた。

②就活本で心が折れた。

が原因ではないかと考えました。

 

①は、うん、気持ちはわかるんです。スーツ着て名前だけは毎日聞くような会社に行くんだもんね、せっかくなら承認欲求満たしたいよね。とりあえずあんまりうるさい人はミュートして事なきを得ました。

 

②~~~!!!多分こっちが決定的にダメだったんだと思います。先輩が良かれと思ってくれた就活本の、自己PRの仕方のところに、企業によって顔を使い分けろって書いてあったんですよね。

まずBIG5(?)で性格を分析して、企業の求める人材も分析して、その分析に基づいて企業の求める人材であることをアピールせよって。言ってることは全うだと思うんですけど、あー、このままの私じゃだめなんか、と思って何かがぽっきり折れました。

 

恋愛においても「ありのままの私を愛して」っていうのは理想だけどやっちゃいけないのはわかってるんですよ。そりゃそのまま愛してもらえたら理想だけど、彼氏は家ですっぴん眼鏡で前髪全部上げてぼさぼさに束ねた私にはちょっと引くだろうし、整理されてないごった煮に本棚にもちょっと引くと思います。だから見せてないし、それでうまくやれている。

 

就活においてもそれが一緒ってだけですよね。

 

でも、全然業界分析してないけど、外資と日系の違いはあるにせよ、求めてる人材像って大体一緒なんじゃないんですか。自発的に行動出来て、リーダーシップがあって、ようは金を稼げる人材。自己PR例でも、アルバイト先のカフェの業績を20パーセント伸ばしたとか、文化祭での集客率がなんとか、結局は数字で(数字だとわかりやすいよね、そうだよね)、結局はお金で。

 

私がサークルでコツコツやってるボランティアは、お金が、数字が絡まないからボランティアなんだよ!!

 

ぐるぐるしてるけど、結局言いたかったのは、就活において求められているのは、企業にとって金を稼げる人材で、それは均一なもので、私はそれを自分に当てはめるのは苦しいってことです。

 

 

金を稼ぐということに関しては私よりも得意な人はたくさんいて、私は彼らのただの下位互換。そういう彼らは、普段飲み歩いていて、本なんか読まなくて、私が好きではない人種。それと一緒にならなくはいけないなんて!

 

文字にしてみると幼稚ですね。大人になりたくないってわめく大人みたい。

 

で、結局就活にやる気を失った私は、夏休み本ばかり読んでいました。そのうちの一冊がこれ。

 

科学する心

科学する心

 

 作家の池澤夏樹さんが書いた科学にまつわるエッセイです。私は池澤さんの作品を読んだことはありませんでしたが、気まぐれに開いたら面白くて、すぐ読み終わってしまいました。

 

エッセイ内容はウミウシから始まり、原子力、『サピエンス全史』、『昆虫記』、AIなど多岐に渡りますが、私が一番好きだなあと思ったのは進化論の話でした。

 

(人の進化の図を挙げて)ホモ・サピエンスに至る「進化」はそんな一直線の向上ではなかった。今の我々すなわちヒトの学名はHomo sapiens sapiens だが、ヒト亜族がチンパンジー亜族と別れた後でも、少なくとも十二種類のヒト属が生まれて、たった一つ(つまりあなたとぼく)を除いて消滅した。左から右へ一直線の進歩的な進化ではなかった。一本の木を下から上へ登るような分岐と末端、つまり絶滅。まだなんとかしばらくは未来があるのが我々、とはたして言い切れるか。

 これが「進化」ということである。

 

 (池澤夏樹『科学する心』、集英社インターナショナル、2019年、p.88)

 

つまり私たちはサルから必然的に優れているから進化して、現在も生き残っているわけではないのです。様々な条件が重なって、運よくまだ絶滅していないだけ。優れているものから順番に並べていけば、正しい道筋ができるわけでもない。

 

上手く読み取れている気はしないのですが、それでもバリバリの文系の私が科学に救われる思いがするなんて考えてもみませんでした。

 

金を稼ぐことができる人から、前ならえで一列に並べられたとて、もうあまり怖くありません。だってそんな一列は存在しないのだし、明日にはあなたは絶滅するかもしれないのだし。

 

そんなことを言ってる私の方が絶滅に近いのかもしれませんが。

 

無敵の恋愛と、その陰の仄暗さ───BUMP OF CHICKEN「新世界」

BUMP OF CHICKENが好きです。世間的にはBUMPと言えば「天体観測」のイメージが強いバンドだと思います。もしくは、中学生のころにはまる、中二病的なものかもしれません。

 

私もご多分に漏れず、中学生のころにはまり、しかし中高生で卒業することもなく、大学三年生の現在に至るまで、一番大好きなバンドであり続けています。

 

初音ミクとコラボした楽曲やライブ、アニメ「血界戦線」や「三月のライオン」のOPを担当するなど、サブカル色の強いBUMPですが、この前ロッテのCMとコラボした楽曲を発表しました。

 

それがこの動画です。血界戦線の監督がアニメーションを担当したかわいい絵柄で、ロッテのお菓子が擬人化されて次々に登場するものです。

 


ロッテ×BUMP OF CHICKEN ベイビーアイラブユーだぜ フルバージョン

 

駅のコンビニで偶然出会った女の子に一目ぼれした男の子の様子がコミカルに描かれるアニメーションに合わせられた楽曲のタイトルは、「新世界」。まさに人を好きになったことで、世界が変わることを描いた歌詞ですが、長らくBUMPリスナーであり続けた身としてはこの歌詞についてどうしても語りたいことが、、!

 

とりあえず、JASRACに怒られない形で歌詞を引用します↓

 

「新世界」BUMP OFCHICKEN

作詞  Motoo Fujiwara

作曲    Motoo Fujiwara

 

君と会った時 僕の今日までが意味を貰ったよ

 

頭良くないけれど 天才なのかもしれないよ

世界がなんでこんなにも 美しいのか分かったから

 

例えば 曲がり角 その先に君がいたら

そう思うだけでもう プレゼント開ける前の気分

 

泣いていても怒っていても 一番近くにいたいよ

なんだよそんな汚れくらい 丸ごと抱きしめるよ

ベイビーアイラブユーだぜ ベイビーアイラブユーだ

ちゃんと今日も目が覚めたのは 君と笑うためなんだよ

 

ハズレくじばかりでも  君といる僕が一等賞

僕がこれが良いんだ 何と比べても負けないんだ

 

世界はシャボン玉で 運良く消えていないだけ

すぐ素直になれるよ それが出来るように出来ている

 

天気予報どんな時も 僕は晴れ 君が太陽

この体 抜け殻になる日まで 抱きしめるよ

ベイビーアイラブユーだぜ ベイビーアイラブユーだ

君と会った時 僕の今日までが意味を貰ったよ

 

もう一度眠ったら 起きられないかも

今が輝くのは きっと そういう仕掛け

もう一度起きたら 君がいないかも

声を聞かせてよ

ベイビーアイラブユーだぜ

 

ケンカのゴールは仲直り 二人三脚で向かうよ

いつの日か 抜け殻になったら 待ち合わせしようよ

ベイビーアイラブユーだぜ ベイビーアイラブユーだ

昨日が愛しくなったのは そこにいたからなんだよ

 

泣いていても怒っていても 一番近くにいたいよ

どんなに遠く離れても 宇宙ごと抱きしめるよ

ベイビーアイラブユーだぜ ベイビーアイラブユーだ

明日がまた訪れるのは 君と生きるためなんだよ

 

僕の今日までが意味を貰ったよ

 

 ①BUMP OF CHECKENの「アイラブユー」

 

BUMPは(というか作詞をしている藤原基央は)「アイラブユー」と明確に(たぶん)これまで書いていませんでした。

 

そもそもBUMPの楽曲に恋愛ソングはそう多くはなく、「才能人応援歌」や「Stage of the ground」など頑張る人にそっと寄り添う曲が多い印象です。公認ラブソングや、これは恋のうたなのだろうなという曲もないわけではなく、「車輪の唄」「アルエ」(藤くんが綾波レイに向けた歌)「リリィ」などが存在します、が、「愛してる」「アイラブユー」という歌詞は登場していません(たぶん)。

 

Jポップではそれこそ大盤振る舞い歳末大セールと言わんばかりに浴びせられる「愛してる」「大好き」「アイラブユー」の文言たち。それは共感を目的にした楽曲なので、多くの人が共感しやすいであろう恋愛を歌詞に盛り込むのも、多くの人の心に届くためにダイレクトな言葉遣いをするのも、ある意味正しいと言えます。

 

しかしBUMPはそうしてきませんでした。それはバンドとしての、藤原基央としての信念しょうし、それがBUMPと他のバンドを隔てる一つの区切りでもあると思います。

 

そのBUMP OF CHICKENがついに「アイラブユー」と歌った。しかも「だぜ」が付いている。ストレートな「アイラブユー」だけでなく、照れ隠しのように、「だぜ」が。

 

藤くんはどこかのインタビューでここの「アイラブユー」はただの恋愛的なものだけでなく、親愛を含む、家族などにも向けられる「アイラブユー」だと述べていたので、必ずしも恋愛関係の「アイラブユー」だけではないことがわかります。

 

しかし、二十数年曲を作り続けたBUMPから、ようやく(?)はっきりと出てきた「アイラブユー」には、尊さを禁じえません。

 

②明るさの陰にあるほの暗さ

BUMPの楽曲の魅力の一つは、どの曲も百パーセント明るいものではなく、数パーセントのほの暗さを持っているところだと考えています。

 

「レム」「ハンマーソングと痛みの塔」など暗いのに明るい曲から、「飴玉の唄」「R.I.P」など明るいのに暗い歌などレパートリーは様々ですが、「新世界」は後者の明るいのに暗い歌に分類されるものでしょう。

 

たとえば、こんなところ。

ちゃんと今日も目が覚めたのは 君と笑うためなんだよ

世界はシャボン玉で 運良く消えていないだけ 

もう一度眠ったら 起きられないかも

今が輝くのは きっと そういう仕掛け

もう一度起きたら 君がいないかも

声を聞かせてよ

『CUT』『JAPAN』のどちらかで藤くんがインタビューに答えていたように、「アイラブユー」が注目されるこの曲も、「明日起きたら君がいないかも」というBUMPの曲にある根源的なところからきている、元になっているのは他の楽曲と何ら変わりのないものではないでしょうか。

 

ロッテのCMの通りに解釈するのであれば、中学生かもしくは高校一年生くらいの男の子の恋愛の様子です。駅で偶然会った年上の女の子。もう一度会えるかなんてわからないけれど、夢の中に出てきてしまうくらい好きで、何度も出会ったお店に通ってしまう男の子。

 

中学生、高校生の頃の恋愛を思い返すと、(恥ずかしいですが)どこか無敵なところがなかったでしょうか。

 

好きな人はたいてい同じ教室の中か、少なくとも学校の中にいて、恋愛の条件はせいぜい顔か身長で、生涯推定年収だとか年齢だとかを気にしないで恋愛ができる。世界が続くことに何の不安も抱かずに、また明日ねと言いあって帰る。体育祭や文化祭などの行事が季節ごとにあって、いつもよりあの子と話せるだろうかと期待したり、席替えの結果にそわそわしたり。

 

新世界の歌詞にも、そのような要素は随所にみられます。

頭良くないけれど 天才なのかもしれないよ

世界がなんでこんなにも 美しいのか分かったから

 天気予報どんな時も 僕は晴れ 君が太陽

 ですが、同時に、先に挙げたようなほの暗い歌詞も含まれているのです。

 

人生に何の疑いも不安もない時期の、ウキウキの時期の恋愛。

であるはずなのに、明日この世界は消えるかもしれない、君がいないかもしれないという、少し遠いところを見ているBUMPならではの歌詞が、エモさ全開です。

 

個人的に、頭を抱えてしまうくらいエモくて心の奥がぎゅっとなった歌詞がここ。

 いつの日か 抜け殻になったら 待ち合わせしようよ

 「抜け殻になったら」は様々な解釈が可能だとは思いますが、私としては死後のことを指しているのではないかと考えます。

 

人生これからで、何も怖くないであろう時期に、すでにいつか来る死を想っているところ(まさにメメントモリ)と、同じ時に死ねるわけではなく、どちらかがどちらかを置いて行ってしまうという現実まで見えているところの二つが、この歌詞が私に刺さってしょうがないポイントです。

 

さらに、いつか来たる死を直視していながら、待ち合わせしようというどうしようもなく前向きであるところに追い打ちをかけられます。

 

BUMPが「天体観測」だけだと思っているなんてもったいない。ぜひフルを!サブスクでもCDでもいいから聞いてほしいです!!!!!!!

 

 

aurora arc

aurora arc

 

 

推しが死んだ話

突然ですが、推しが死にました。

 

今回は本の話でもなく、映画の話でもなく、ただのオタクによる弔辞です。多分気持ち悪いです。

 

現在大学三年生の私は、一、二年生の時に履修上限まで授業を詰め込んでいなかったせいで、結構な積み残しの単位があります。それを一掃しようと、今年の春は授業を多めに取り、レポートとテストが五つずつ、発表が一つ、七月の終わりから八月の初めにかけて控えている状況でした。高学年になったので、レポートの内容も文字数も簡単に倒せなさそうなものばかりでした。その中でも、難易度が高そうなレポートを二つ倒した、テスト前の土日に、私の電池はぷつりと切れてしまいました。困ったことに、何もやる気が出ない。

 

困った私は、とりあえずネットフリックスを開きました。何か一つ観ればやる気が起きるかもしれない。だけど映画は二時間もある。軽いものがいい。そうだ、アニメはどうだろう──。

 

そうして見つけたのは、以前シーズン2まで観てから、先を追いかけていなかったアニメでした。一話見たら勉強に戻ろう、そう思って再生したのが運のツキでした。

 

さて、私の推しの話をしましょう。

 

推しは成人男性で、身長176センチ、体重65キロ。ちょっと大変な世界に生きていて、戦っているひとです。目立つキャラクターではなく、完全なる脇役で、原作でもなんだか作画が怪しい。

 

では、この作品にはもっと(?)魅力的なキャラクターがたくさん出てくるのに、なぜ私がその人を推しているかというと、彼のおかれた役回りに理由はあります。

 

彼は、女上司に身を挺して忠実に仕えている部下なのです。その女上司は、仕事に燃える変人で、彼は振り回されてばかり。だけどいつでも一緒にいて、危険から上司を守り、時にいさめる私の推し。いつだって斜め後ろにいるのに、部外者から上司が軽んじられた時には一歩前に出て、不届きものの手をつかんで威嚇する推し。

 

尊い

 

私はそもそも上司と部下、主と臣下という関係性にどうやら弱いようで、「ストロベリーナイト」の菊田と姫川や(年下女性警部補と年上巡査長)、「パレス・メイヂ」の御園と陛下(女帝と出仕の少年)などにこれまでハマってきました。

 

推しとその上司の関係性はまさにドンピシャであり、私はこの推しを推しているというよりは二人の関係性を推しているのです。だけど推しCPかと言えばそれも違う。たとえそこに恋愛感情があろうとなかろうと、それは問題ではありませんでした。

 

ここで冒頭に戻りますが、その推しが死にました。

いえ、わかっていたんです。推しが生きる世界は、ざくざく人が死ぬことで定評のある世界でした。私以前に推しが死んだ人も沢山いたでしょう。そして私の推しは完全なる脇役。物語のキーにはならないだろうし、もしかしたら死ぬところさえも描かれないかもしれない。おそらく大切に思っているであろう、上司とは全く関係ないところであっけなく死ぬかもしれない。うっすら覚悟はできていました。

 

そして、私は以前原作の漫画で、推しが死んだことを知っていました。それなのになぜ今回こんなにしんどいのか(多分その時はしんどすぎて記憶を封印したんだと思います)。テストがとうに終わって、夏休みに突入してから一週間、インターンのESも書けないくらいに引きずるのか。

 

ちょっとそれはわからないけど、とにかくしんどい。

 

推しの死にざまの話をします。先ほどなんも関係ないところで推しが死ぬのではという危惧があったと書きました。

しかし、私の推しは、まさに推しのすべてを体現した形で死にました。上司を爆発から守るため、井戸に叩き落し、自分はその爆発に巻き込まれて、跡形もなく消えたのです。理不尽に殺されていく人々が多いその世界の中で、きちんと自分を全うして、上司の目の前で死んでいった推し。さらに推せる。

 

書いていて気づいたのですが、私は推しの死ぬシーンでさらに推しを推したくなり、しかし推しは死んだのでそれができずに欲求不満だからこそ、こんなに引きずっているのかもしれません。

 

特に意味もなく伏せてたけど、私の推しの名は、モブリット・バーナー。名前からもうモブ感があふれ出している、進撃の巨人の登場人物です。ハンジの優秀な副官でした。願わくば、君が次に生まれる世界が平穏であらんことを。アーメン。

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ここから下は、本当に行き場を失ったただのオタク語りなので、ちゃんと読まなくて大丈夫です。

 

モブリットを失い、ハンジがエレン達のところへ向かうと、そこには超大型巨人との戦闘で黒焦げになったアルミンと、獣の巨人との戦闘で重傷を負ったエルヴィンがいます。リヴァイが持っている巨人化して延命できる注射は一本きり。彼らはどちらかの命を選ぶことを迫られます。エレンとミカサは、幼馴染であるアルミンの延命を望みますが、リヴァイとハンジは、団長であるエルヴィンの延命が必要であると説きます。

その際、暴れるミカサを説得すべくハンジがミカサを抱きしめていった言葉が、「私にも生き返らせたい人がいる。何百人も」でした。そこで挟まれる、モブリットが死ぬときの回想。「何百人も」とついていたことで、彼は、ハンジにとってはそのうちの一人でしたなかったんだと、少ししょんぼりしました。原作での彼のモブ具合を考えれば当然なのですが。

結局考えを巡らしたリヴァイは薬をアルミンに打ち、エルヴィンは死亡します。これまで信頼関係が何度も描かれてきたエルヴィンを失うことは、リヴァイにはつらいはずです。これまで生き残ってきて、今後も生きて戦う調査兵団幹部のハンジとリヴァイに、同様の喪失体験をさせるためにモブリットが死んだのだとしたら、舞台装置に使われた気がして、また少ししょんぼりしました。しかし、よく考えればリヴァイにとってのエルヴィンの重みと、ハンジにとってのモブリットの重みが同じくらいってこと??それってとってもヘビーだし、モブリットも本望では?とも思います。

 

 

 

 

なめられても言い出せない私へ──芥川賞候補作・高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』

芥川賞をみんなで読む読書会(ちょっとぼやかし)に参加して、自分のなんとなくの感想が言語化できたので、まとめます。

 

高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』は女の子のための物語でした。(と言ってしまうと安っぽくなるので嫌なのですが)

 

カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

 

 

 

主人公の「私」は、幼いころおばあちゃんのすべすべの背中に「エロ」を感じていた。そんなエピソードから始まり、小学生のころ「おなかなめおじさん」の被害に遭ったこと、中学生のころ大学生の寮にこっそり侵入したこと、高校生のころ仲の良い男友達がいたことなどの断片的なエピソードが語られます。

そうして今の私は、ひょんなことでお世話になった喫茶店兼バーの店員の知人に、高校生のころ仲の良かった男の子がいることを知ります。

 

これら断片的なエピソードは、すべて性にまつわるものです。最初の一つを除けば、すべて性被害にまつわるもの、と言ってもいいでしょう。

 

そしてそれは、私にも身に覚えがあるものですし、多くの女の子にも身に覚えがあるものでしょう。

 

もう覚えていないくらい昔に、何か背徳感を覚えるもので、性に触れたこと。

 

小学生のころ、(直接の被害に遭ってはいなくても)隣の小学校で不審者の被害に遭った女の子の話を聞いて、自分たちは大人の性的な欲望を向けられる存在なのだとうっすら認知したこと。

 

中学生の「私」が、弱気な大学生に襲われかけたように、自分はそんな気はなかったのに、男の子に迫られたこと。

私は中学二年生の時にできた彼氏に、やたらと家に行きたいとメールで繰り返され、そのあまりの必死さに怖くなったことがありました。

 

そして高校生の時、「私」はレイプという形ですが、そうでなくても、ほんとうの形で性を知ったこと。

 

「私」がたどるのは、私たち女性が女の子の時に、たどるべくしてたどった、自分の性的な面との出会いと深化です。

 

未だ大学生の私は、明確にその階段を覚えているからこそ、この話を怖いとも思ったし、共感もしたし、勇気づけられました。私がそのすべての段階で怖いと思ったことは、間違ってなかったのだとも思えました。

 

どのエピソードも強烈ですが、特に印象深かったのは、「おなかなめおじさん」の被害に遭った話です。工事現場で、物陰に引き込まれ、女の子のおなかに顔をうずめて匂いを嗅いだり、おなかをなめたりする不審者の被害に遭った「私」は被害に遭ったことを言い出せずにいます。しかし、その不審者はその学区の子供のおなかを他にもなめており、問題になります。

 

おなかをなめられた女の子となめられなかった女の子の間には、ある区別がありました。それは容姿がかわいいか、かわいくないかということ。言い出せずにいた「私」は自動的に舐められなった、かわいくない方に分類されますが、なめられた子から慰められます。

 

「なめられなかった中ではかわいい方だよ」(うろ覚え)と。

 

この同情。

痴漢などの「軽度と考えられている」性犯罪にはつきものの感覚。

 

痴漢をされた、と訴えた時、決まって言われる言葉が二つあります。それは「そんな恰好をしているあなたにも非はあったのではないか」ということと、「でもうれしかったんじゃないの」というセカンドレイプ

 

後者がもう本当に最悪です。この作中の出来事もそうですが、なぜか「軽度と考えられている」性犯罪の被害に遭うのは、性的魅力があるからとみなされています。された側はうれしくなんてないのに。

 

その認識があるからこそ、「痴漢に遭った」と訴えると、まるで自己顕示欲にまみれているようにとらえられます。女性専用車があると安心だ、というインタビューに応じている女性の容姿にとやかく言うのもそこが起因していると考えます。性的魅力のない人が痴漢を恐れるなんて自意識過剰だ、とでもいうように。

 

しかもそれは女性の間にも蔓延しているのです。「私」が友達に同情されたように。小学生の女の子でも、「軽度と考えられている」性犯罪に遭う事は性的魅力があるということであり、ある種の誇れる体験である、ととらえてしまうほど、その言説が社会全体に蔓延していると考えられます。

 

この言説によって、性犯罪に遭った女性(時には男性も)が被害を言い出しにくくなります。性的魅力がないのに被害に遭うわけないじゃないか、自意識過剰だというセカンドレイプを恐れて。そもそも信じてもらえないのではないかということを恐れて。

作中で「私」はそのことに思いを巡らせます。

「まあ、特に問題ないんだけど」(うろ覚え)

 

だまっていれば外的には、問題はないのです。内的にも、とりあえずは問題ないということにしてしまってもよいでしょう。しかし、消化しきれない体験は身の内に降り積もります。

 

と、ざっとここまで700字ほどを集約した「おなかなめおじさん」のエピソードは、私にとって苦しいものでした。

 

『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』は、女性は深く共感できるかもしれませんが、男性は説明が必要な作品かもしれません。その意味で芥川賞受賞は難しいのかもしれませんが、誰になんと言われようとも、私の中で一番であることは変わらないと思います。

 

 

 

深読みすると元カノを殺したくなる話──映画「武士の献立」

ゼミの文献購読やら、掛け持ちしているサークルの仕事やらで忙殺されて、だいぶ更新が滞ってしまいました。

 

忙しい中にも何とか本を読んだり映画を見たりはしてるので、時間のある時にそれらの感想をゆっくり書いていけたらと思っています。

 

書きたいことを溜めに溜めているわけですが、今日は、まさに今日見た映画の感想を書きます。感想を寝かせもせずに書くので、いつも以上に支離滅裂、また内容的にネタバレがひどいですがご容赦ください。

 

さて、以前の記事にも書いたかもしれませんが、私は元カノ殺したい界隈の人間です。彼氏が元カノみ未練たらたらというわけでもなく、元カノが彼氏に未練たらたらというわけでもありません。火のない所に煙は立たぬとは言いますが、私は妄想で煙を立てては病み、日々彼氏になだめられています。

 

未練がなくても、ふとした会話に元カノの影がちらつく時点でもういやなのです。「前からプレゼントのセンスはないって言われてきたんだよね」え、だれに?え、○○さんだよね?何あげたの?それいつのこと?

 

そんな私が、共感するはずもないだろうという映画で、主人公に無駄に共感してしまいました。

それが、こちら「武士の献立」。

 

武士の献立

武士の献立

 

 

料理が得意な春は、その腕を見込まれ、加賀藩の藩主の台所をつかさどる舟木家に嫁に来る。しかし春の夫になった安信はとんだ料理下手であった。春は安信の料理の腕の上達をもくろむのだが...?

というストーリー。

 

亭主関白絶頂期のこの時代に、夫に強気にでたり、時にうまく立ち回って奮闘する春の姿に胸が熱くなります。あと、料理がとてもおいしそう。私は昔から本でも映画でも、おいしそうなものが出てくるものが大好きだったので、この映画もおいしいものがたくさん見られそうだな、くらいの気持ちで見始めました。しかしこれはとんだ元カノ殺す案件の映画でした。

 

※以下ネタバレ注意!!

 

順調に進むストーリーで、おやおやと最初に思ったのは、安信の親友の妻・佐代が祝いの品を舟木家に持ってきたところでした。春の姑が「安信の祝いの品を佐代どのにもらうことになるとはなあ」と一言発し、気まずい雰囲気に。姑は説明もせず、春は置いてけぼりになります。絶対この女安信と昔何かあった。でも嫁いできたばっかりだし聞くに聞けない、、!

 

おやおやはまだ続きます。安信の文箱に見知らぬかんざしを見つけた時。

そして、安信が料理の腕を上げ、昇進が決まったときに、春は佐代に祝いの品を渡されます。その時に佐代が一言「春様が来てくれて、私も肩の荷が下りた気がします」(うろ覚え)。

おやおやおや、それは宣戦布告ととってもよろしいか?手袋なげられましたか?過去の女の余裕的な奴、見せつけてくるのやめてくれませんか????

春がその出来事を姑に話すと、姑は二人の過去を明かしてくれます。

 

佐代は安信が幼少のころから通っていた道場の一人娘で、最初は安信の一目ぼれでした。年も近く、二人は幼馴染として育ち、安信は剣の腕を磨いていきました。佐代は一人娘だったので、次男坊の安信が婿に入るものだと、安信の両親も思っていました。しかし、土壇場で安信の兄が死に、安信は家を継がねばならなくなりました。佐代は結局安信の親友と結婚することになります。

 

うわあああああと頭をかかえそうになるほどアウトな案件ばかりです。まず幼馴染っているのがダメ。「こいつとは幼馴染だから」っていうのはダメな男の常套句でもあります。(知らんけど)あと、結ばれるはずだったのに運命に引き離されたっていうのもダメ。その悲劇的な感じがさらに二人を引き寄せてしまいます。ロミオとジュリエットみたいに。

 

その後もかくかくしかじかあって、結局親友は政治闘争に巻き込まれて死に、佐代はひっそりと加賀に戻ってきます。その報告を親から聞いた時の安信の反応もダメ。そんな目見開いて「佐代が、、?」って言わんでもよかろうに。隣に嫁がいるのに違う女のこと聞いて嬉しそうにせんでもよかろうに。

 

安信は饗応料理という、大きな仕事を任され、城に赴きます。そして帰ってくると春の姿がなくなっているのです。手紙には、自分の役目はもう終わったこと、安信には舟木家にふさわしい相手を嫁に迎えて欲しいことが書き残されています。

 

春はただでさえバツイチで、安信より四歳上の身。なかなか子供もできず、そんな中で夫の昔好きだった人の話がにおわせってレベルじゃなく次々突きつけられたら、そりゃそうなるよ、と思いました。私ならねちねち安信と佐代に嫌がらせをしたかもしれませんが、春は立つ鳥跡を濁さずといった感じであっさり身を引いてしまいます。

 

しかし、ラストのシーンで海辺の海女たちのところに身を寄せる春のもとに安信が現れ、やっと「お前がいい」と春に告げ、二人はともに舟木家へ帰ります。遅いよ安信、遅すぎるよ。君がそこまで出世できたのは春のおかげでしょう。言葉足らずだからわざわざ遠くまで探しに来る羽目になるんだよ。わかったか。

 

と、このように、ハートフルお料理時代劇のはずが、主人公にどうしようもない方向で感情移入してしまった日でした。この映画の教訓は、男は元カノを安易ににおわせない、ということですね。※個人の意見です