なめられても言い出せない私へ──芥川賞候補作・高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』
芥川賞をみんなで読む読書会(ちょっとぼやかし)に参加して、自分のなんとなくの感想が言語化できたので、まとめます。
高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』は女の子のための物語でした。(と言ってしまうと安っぽくなるので嫌なのですが)
主人公の「私」は、幼いころおばあちゃんのすべすべの背中に「エロ」を感じていた。そんなエピソードから始まり、小学生のころ「おなかなめおじさん」の被害に遭ったこと、中学生のころ大学生の寮にこっそり侵入したこと、高校生のころ仲の良い男友達がいたことなどの断片的なエピソードが語られます。
そうして今の私は、ひょんなことでお世話になった喫茶店兼バーの店員の知人に、高校生のころ仲の良かった男の子がいることを知ります。
これら断片的なエピソードは、すべて性にまつわるものです。最初の一つを除けば、すべて性被害にまつわるもの、と言ってもいいでしょう。
そしてそれは、私にも身に覚えがあるものですし、多くの女の子にも身に覚えがあるものでしょう。
もう覚えていないくらい昔に、何か背徳感を覚えるもので、性に触れたこと。
小学生のころ、(直接の被害に遭ってはいなくても)隣の小学校で不審者の被害に遭った女の子の話を聞いて、自分たちは大人の性的な欲望を向けられる存在なのだとうっすら認知したこと。
中学生の「私」が、弱気な大学生に襲われかけたように、自分はそんな気はなかったのに、男の子に迫られたこと。
私は中学二年生の時にできた彼氏に、やたらと家に行きたいとメールで繰り返され、そのあまりの必死さに怖くなったことがありました。
そして高校生の時、「私」はレイプという形ですが、そうでなくても、ほんとうの形で性を知ったこと。
「私」がたどるのは、私たち女性が女の子の時に、たどるべくしてたどった、自分の性的な面との出会いと深化です。
未だ大学生の私は、明確にその階段を覚えているからこそ、この話を怖いとも思ったし、共感もしたし、勇気づけられました。私がそのすべての段階で怖いと思ったことは、間違ってなかったのだとも思えました。
どのエピソードも強烈ですが、特に印象深かったのは、「おなかなめおじさん」の被害に遭った話です。工事現場で、物陰に引き込まれ、女の子のおなかに顔をうずめて匂いを嗅いだり、おなかをなめたりする不審者の被害に遭った「私」は被害に遭ったことを言い出せずにいます。しかし、その不審者はその学区の子供のおなかを他にもなめており、問題になります。
おなかをなめられた女の子となめられなかった女の子の間には、ある区別がありました。それは容姿がかわいいか、かわいくないかということ。言い出せずにいた「私」は自動的に舐められなった、かわいくない方に分類されますが、なめられた子から慰められます。
「なめられなかった中ではかわいい方だよ」(うろ覚え)と。
この同情。
痴漢などの「軽度と考えられている」性犯罪にはつきものの感覚。
痴漢をされた、と訴えた時、決まって言われる言葉が二つあります。それは「そんな恰好をしているあなたにも非はあったのではないか」ということと、「でもうれしかったんじゃないの」というセカンドレイプ。
後者がもう本当に最悪です。この作中の出来事もそうですが、なぜか「軽度と考えられている」性犯罪の被害に遭うのは、性的魅力があるからとみなされています。された側はうれしくなんてないのに。
その認識があるからこそ、「痴漢に遭った」と訴えると、まるで自己顕示欲にまみれているようにとらえられます。女性専用車があると安心だ、というインタビューに応じている女性の容姿にとやかく言うのもそこが起因していると考えます。性的魅力のない人が痴漢を恐れるなんて自意識過剰だ、とでもいうように。
しかもそれは女性の間にも蔓延しているのです。「私」が友達に同情されたように。小学生の女の子でも、「軽度と考えられている」性犯罪に遭う事は性的魅力があるということであり、ある種の誇れる体験である、ととらえてしまうほど、その言説が社会全体に蔓延していると考えられます。
この言説によって、性犯罪に遭った女性(時には男性も)が被害を言い出しにくくなります。性的魅力がないのに被害に遭うわけないじゃないか、自意識過剰だというセカンドレイプを恐れて。そもそも信じてもらえないのではないかということを恐れて。
作中で「私」はそのことに思いを巡らせます。
「まあ、特に問題ないんだけど」(うろ覚え)
だまっていれば外的には、問題はないのです。内的にも、とりあえずは問題ないということにしてしまってもよいでしょう。しかし、消化しきれない体験は身の内に降り積もります。
と、ざっとここまで700字ほどを集約した「おなかなめおじさん」のエピソードは、私にとって苦しいものでした。
『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』は、女性は深く共感できるかもしれませんが、男性は説明が必要な作品かもしれません。その意味で芥川賞受賞は難しいのかもしれませんが、誰になんと言われようとも、私の中で一番であることは変わらないと思います。