ひつじの絵をかいて!

いろいろ拗らせた本の虫女子大生の独り言。すべては主観であり、個人的な意見です。

現実を克服するための創作の話──湯浅正明監督「夜明け告げるルーのうた」

一般教養の授業だったか、何かの本だったか、はたまたネットか、どこで知ったのかは覚えていませんが、印象に残っている話があります。

 

それは、既存の社会の根本を揺るがすような事象が起きると、創作人は必ずそれを自身の創作に何かしら取り込むという話です。

 

『八日目の蝉』『紙の月』など実際の事件をダイレクトにモデルにしているものや、サスペンスに「酒鬼薔薇聖斗」「少年A」を思わせるシリアルキラーなどが多く登場するようになったのも事件の影響といえるでしょう。マニアックだけれどダイレクトなものとしては、幾原邦彦監督のアニメ「輪るピングドラム」の主人公たち兄弟の両親が起こした事件のモデルは、オウム真理教の起こした地下鉄サリン事件が元ネタであると推察されます。

 

さて、四半世紀もまだ生きていない私ですが、生まれてから今までで遭遇した、一番大きな事件は東日本大震災です。まだその爪痕を日本に強く残している震災は、もちろん創作人に大きく影響を与えるものであったと言えるでしょう。

 

東日本大震災を扱ったフィクションとして、真っ先に思い浮かぶのは天童荒太さんの『ムーンナイト・ダイバー』です。

震災から四年半、かつて漁業を営んでいた主人公の舟作は、被災者団体の依頼を受けて、亡くなった人々との思い出の品を探すために深夜の海に潜ります。妻と子供は無事であったものの、家族を亡くした主人公と、それぞれ大切な人を失った周囲の人々が、生きていこうともがく、残された者の物語です。

 

始めてこの小説を読んだとき、被害に遭わなかった私でも、胸に迫るものがありました。ああ、昔きいたあの話は、こういうことなのだと思いました。創作の中に事件が写し取られる限り、事件そのものが風化したとしても、その創作を新しく手に取る人には、その事件がありありとよみがえります。

 

最近まで、震災を扱ったフィクションでは『ムーンナイト・ダイバー』がわたしの中では一番だと思っていましたが、ついこの間、新たな作品に出会いました。

 

それが、湯浅監督の「夜明け告げるルーのうた」です。

 

夜明け告げるルーのうた
 

 

湯浅正明監督によるオリジナルアニメーションです。私はアニメーションについては詳しくないのですが、湯浅監督と幾原監督が新進気鋭で独特な個性を持っているのだなあということは、門外漢でも何となく理解できます。湯浅監督は森見登美彦さん原作の『夜は短し歩けよ乙女』や『四畳半神話大系』のアニメ化の際の監督として有名です。森見さんの世界観を映像で的確に表現していて驚いたことを覚えています。的確に表現、というよりは、ものすごく相性がいいと言った方が正しいかもしれません。

 

両親の離婚が原因で、東京から父の実家であるさびれた漁村「日無町」に引っ越してきたカイ。ある日カイは動画サイトにアップしていた編曲動画をクラスメイト遊歩と国夫に発見され、その才能を見込まれてバンドに参加することになります。近づいてはならないとされている「人魚島」でバンドの練習をしていると、人魚の女の子が現れて──?というストーリー。

 

中学生の葛藤と、人魚という未知の生物との出会いと淡い恋、ジブリの「崖の上のポニョ」を連想しないでもないルーのキャラクター、と一見ありふれた映画のようですが、そこはさすが湯浅監督。独特の色彩感覚と映像表現もそうですが、なんといっても今作は音楽が物語の、そして映画全体のキーになっています。アニメーション×音楽ってこんなに人をワクワクさせるんだ!とその魅力を再発見した思いです。小さい子はもちろん、大人も単純に楽しい映画として鑑賞できます。

 

さて、こんなに楽しくてハッピーな映画が、どうして震災に関係するのかというと、理由は終盤の展開にあります。

 

踊るルーの動画がインターネット上で拡散され、好意的に人魚の存在がとらえられるようになった日無町は、人魚ランドを再建し、人魚を使った町おこしを始めます。そのセレモニーで、ルーが人気になるきっかけにもなったカイたちのバンドが演奏することになりましたが、注目されるのはルーばかり。それに腹を立てた遊歩は姿をくらましてしまいます。年配者は人魚に懐疑的な人も多く、遊歩は人魚に食べられてしまったのではないかと、人々が一気にルーの敵に回り、ルーを閉じ込めてしまいます。ルーを助けに来たルーの父親もろとも釜の中に閉じ込めたのですが、「御陰さんのたたり」で、町に海の水が押し寄せてきてしまいます。

 

「たたり」という人間にはどうしようもない理由で水が押し寄せる、という箇所に、津波を連想しました。もちろん現実の土砂やがれきを含んだ水ではなく、ただただ海水が上がってくるのですが、それだけでも、本震直後に中継されたあの津波の映像を覚えている身としては、とても怖く感じました。

 

あふれてくる水に、人々は高台を目指しますが、高齢者や家族づれなど、取り残されてしまう人々が多く出てきます。そんなとき、釜から脱出したルーと、父親の仲間の人魚たちが、人間を高台まで運び出したのです。ルーや父親は、魔法の力で海水を寒天のように操り、高台まで人間を飛ばします。他の人魚たちは、泳いで人間を運んでいきます。

 

このシーンでめちゃめちゃに泣きました。虐げた人魚たちが、それでも人間を助けてくれる、ということもそうなのですが、なによりこれが、震災の時のIFに見えてしょうがなかったのです。

もし、人魚がいたなら。

絶対にありえないことでも、願わずにはいられませんでした。これはIFであり、同時にそれが救いでもあると感じました。

 

このシーンは多くの救いに満ちています。新しいプードルを飼うためにブルドッグを捨てた男性が、ワン魚になったブルドッグに助けられたり。海で恋人を失って人魚を憎むようになったタコ婆が、恋人に再会できて人魚になったり。幼いころ人魚に目の前で母親を殺されたと思っていたカイの祖父の誤解が解けたり。

 

しかしあまりにも多い人間の人数に、人魚たちは疲れ果ててしまいます。そこに流れてきたのが、町のスピーカーから聞こえるカイが歌う「唄うたいのバラッド」です。歌に力づけられた人魚たちは、協力して町から水を取り除き、日無町にも夜明けが訪れます。

ここの「唄うたいのバラッド」も憎すぎる演出でした。斉藤和義さんによる歌もものすごくいいのですが、これまで徹底して打ち込みで音楽をしてきたカイが、自分の声で、少し拙くでも必死に歌う姿にめちゃめちゃ泣きました。

 

夜明け告げるルーのうた」は宣伝等でも(おそらく)震災を扱った物語としては語られていません。しかし、3.11の同じ記憶を共有する人にとっては、思い当たるふしがいくつもあるものではないでしょうか。

このくらいの、断定しないさりげない創作への事件の折り込みこそが、フィクションにおける現実の事件の輸入の「よいかたち」なのではないかと思いました。

直視するにはつらすぎる事件に、人間は目を背けがちです。この映画のように、さりげない寄り添い方で、しかもハッピーエンドを届けてくれる作品こそ、人々の心を癒し、事件の消化を助けるものになり得ることでしょう。