ひつじの絵をかいて!

いろいろ拗らせた本の虫女子大生の独り言。すべては主観であり、個人的な意見です。

一過性の小説の話──古市憲寿『平成くん、さようなら』

良い小説を定義するのは難しいことだと思います。

出版社にとっての良い小説とは、売れる小説かもしれませんし、読者にとっての良い小説とは、自分に寄り添ってくれるものかもしれません。アイドルファンにとっては、推しが出版した小説が一番良い小説かもしれません。ある政治思想を持った人にとっては、同質の政治思想を持った人が書いた小説がいいかもしれません。

もしくは、より多くの種類の本に日々触れている書店員が選ぶ本屋大賞で選ばれるのがよい小説でしょうか(販促的な意味もあるとは思いますが)。そうではなく、、芥川賞直木賞のような権威ある賞を受賞するのがよい小説でしょうか。

 

今回は、日本文学において大きな権威的存在である、芥川賞の候補作であった、『平成くん、さようなら』についての話です。

 

 

平成くん、さようなら

平成くん、さようなら

 

 

果たしてこの小説がわたしにとって「いい小説」だったかどうかはいったん置いておきましょう。

 

主人公の愛は、平成元年に生まれ、いかにも「平成らしい」外見と考え方を持ち、平成を代表する文化人として活躍する恋人の平成(ひとなり)くんに、「死のうと考えている」とある日唐突に伝えられます。物語の中では、日本で安楽死が合法化されており、病気による苦痛だけでなく、精神的苦痛によってでも、医師の判断があれば安楽死擦ることは可能です。「僕はもう古い人間になってしまう」という平成くんと、恋人に死んでほしくない愛。彼らがたどり着く、いかにも現代らしい結論とは──?というのがあらすじです。

 

アップデートされた現代の死生観、介護費医療費増大の対策としての安楽死の提案がテーマになっている、極めて社会的な小説であると思います。作者も(テレビをほとんど見ない私は『平成くん、さようなら』を読むまではしりませんでしたが)テレビでコメンテーターとして活躍する古市憲寿さんであることからも納得です。

(いま改めて考えると、自分をモデルに平成くんを描いたとしたら興ざめもいいところだったと思うので、初読の際は先入観なしで読むことができてよかったと思います)

 

この小説の一番の注目すべき点は、ストーリーではなく、小説が書かれた目的ではないかと私は考えます。

 

『平成くん、さようなら』は第160回芥川賞の候補作になった作品です。第160回芥川賞は2019年一月の選考会で選ばれたものであり、次回の芥川賞は2019年の七月であることから、いわゆる平成最後の芥川賞の候補作であったと言えます。古市氏が、完全に計画的にこの作品を作り、世に出したことが明らかであると考えられます。

平成最後の芥川賞に『平成くん、さようなら』というタイトルの作品で挑むというのはあまりに挑戦的な気もしますが、受賞しなくとも氏のネームバリューと作品のキャッチ―さから、候補作になるだけでも十分注目され、「売れる」と見越した上での作品でしょう。

 

小説が書かれた目的が、「小説を書く」でなかったから、その小説が良い小説ではないというわけではありません。「売れる小説を書く」ということが目的であったとしても、その小説が人を救うこともあるでしょう。

 

しかし、『平成くん、さようなら』は、目的であろう「平成最後の芥川賞で注目を浴びること」に終始するあまり、良い小説にはなり切れなかったように思います。

特に気になるのは、キャラクターの造形と随所にちりばめられた「平成らしい」ワードの二点です。

 

まず初めに、キャラクターについて。『平成くん、さようなら』の主たるキャラクターはやはり、平成くんと主人公の愛の二人です。平成くんは長身で重たい前髪、眼光の鋭い目という見た目を持ち、極めて論理的に物事を考える人物として描かれています。外に出るときも、パスケースにクレカを二枚と、一万円札を三枚持つのみ。想像するとしたらRADWIMPS野田洋次郎さんか、米津玄師さんなど邦ロックのボーカルにいそうな見た目でしょうか。下北沢にもたくさん生息していそうです。

確かに、そのような見た目の若者は多いかもしれません。SNSでの飲み会を嫌う風潮を見ると、ドライで、論理的なのが平成に生まれた若者の傾向というのもわかります。しかし、それはあくまでよくいるというだけで、「平成らしい」を集めたらそれだけで人物像が形成できるわけではないと思うのです。

「平成らしい」若者たちを符号にして集めてみたのが平成くんかもしれませんが、符号は元をたどれば個々の人間であり、彼らには平成らしくない面も、生の感情も持っているはずです。平成くんを平成らしく描こうとするあまり、人間的な部分が欠落してしまったのではないかと思いました。

平成くんの人間らしい(?)本当の死にたい理由を印象付けるために、それまでの平成くんを人間離れた存在として描いているのかもしれませんが、この流れではあまりに平成くんの本当に死にたい理由が陳腐に感じられました。『君の膵臓をたべたい』のヒロインが死んだ理由と同じくらい、私にとっては陳腐でした。

 

また、平成くんに死んでほしくないと思う恋人の愛についても引っ掛かりを覚えました。自分の話になってしまいますが、私も一時期愛と同じような、死にそうな恋人を止めたことがありました。なので、共感して読むことができるのではないかと期待していたのですが、残念な結果に終わりました。愛の「思い」の部分が見えず、途中で何度もこの子は本当に平成くんに死んでほしくないと思っているのかなと首をかしげました。

愛はラストへの伏線である「ねえ、平成くん」という呼びかけをする道具として、また、安楽死が合法化された日本の説明と、いかに平成くんが「平成らしい」かという説明に利用され消費されたキャラクターのように感じるのです。

 

 

次に、頻出する「平成らしい」ワードについてです。この小説にはいたるところに固有名詞が登場します。平成くんの着ている服は毎回ブランド名(ドリスヴァンノッテン、メゾンマルジェラ、サカイ……)が出てきますし、ゲームの名前しかり(Switch、FGO)、映画の名前しかり(リメンバー・ミー、君の名は)。いい加減くどいわ、と冒頭三ページで思ってしまいましたが、ほぼ最後まで固有名詞攻めが続きます。

極めつけは、愛が平成くんの昔からの友達に会いに行ったこの場面。

 

しかしどうしても集中できずに、このカフェでの喧騒音がやたら耳に入ってきた。今日の5限さぼっていいよね。経済原論のレジュメ貸してもらえる?8年越しの花嫁で泣いちゃった。レジが9時から入ってるんだよね。アンナチュラルの主題歌って誰が歌ってたっけ。

 

ここで冒頭に戻りますが、ある出版社の編集の方にお話を聞いた時に、「いい小説とは普遍性を持つものだ」とうかがったことがあります。さて、この小説は果たして普遍性を持つものでしょうか。

私は再読するまで「8年越しの花嫁」という映画があったことを忘れていましたし、「アンナチュラル」がいくらバズッたドラマだからだと言って、一年に四クールあってそのクールの中でも十何本作られるであろうテレビドラマの一本を、十年後の人が読んだところで誰が覚えているでしょうか。(編集者の方がおっしゃった「普遍的なもの」はもっと本質の部分での話かもしれませんが)読者として「ん?なんだこれ」と読んでいて悪い意味で引っ掛かってしまう障害はわざわざ設置しなくてもよいと思うのです。

というか『平成くん、さようなら』は平成を代表するというよりは、あまりに古市氏が小説を書いた時に話題になっていたものを詰めました、という感じがありありと察せられます。

 

と、いうわけで『平成くん、さようなら』は私にとっては良い小説ではありませんでしたし、もう再読することはないのではないかと思います。チャレンジとしては面白くなくもないので、平成が終わる前に一読してみてはいかがでしょう。令和になってからでは、平成くんの言うように「終わった存在」になってしまうでしょうから。