ひつじの絵をかいて!

いろいろ拗らせた本の虫女子大生の独り言。すべては主観であり、個人的な意見です。

政治的正しさと小説の話──雪舟えま『緑と楯 ハイスクール・デイズ』

「ポリティカルコレクトネス」という言葉をご存知でしょうか?

日本語だと「政治的正しさ」と訳されるものです。

 

ポリティカル・コレクトネスpolitical correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、性別人種民族宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正中立な言葉や表現を使用することを指す[1][2][3][4]政治的妥当性ともいう [1]

Wikipedia 「ポリティカル・コレクトネス」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9 最終閲覧日 2019年4月3日)

 

例でよく取り上げられるのは黒人に対しての呼称を「ブラック」→「アフリカンアメリカン」とすることで、差別的な意味合いを取り除くという実際にアメリカで行われたものでしょうか。

日本でも、「障害者」→「障がい者」や「看護婦」→「看護師」などの言いかえがなされています。

 

全ての言いかえが必要なもの、差別をなくすために効果のあるものだとは一概に言えないかもしれませんが、まだ、この範囲であれば、理解も及ぶし納得もいくものだと考えます。

 

しかし近年、ポリコレに妙な動きが出ています。

人気モデルの白人女性が、黒髪のウィッグを付けて和装で、日本でロケ撮影を行ったことに対して批判を浴びたというのです。

 

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1779780.html

https://www.huffingtonpost.jp/2017/02/16/vogue_n_14788604.html

日本人は当たり前に洋服を身に着け、結婚式にはドレスも着ます。Instagramでは、韓国観光で伝統衣装のチョゴリを身に着けた女子大生たちの写真がよく見られます。

 

それなのになぜ、侮蔑的な意図もなくただ他の文化のオマージュを行っただけで、「人種差別」と言われてしまうのか。

「白人」が「アジア人」の格好をしたことが、「文化盗用」「cultural appropriation」として問題になっているようです。しかし、ネット上の反応や、私が一日本人の目線から見ても、別に問題はないのではないかと思ってしまうのが、日本国外(特に欧米)と国内とのギャップを感じさせます。

 

ポリコレはある程度は必要かもしれませんが、行き過ぎたものは文化を殺してしまいかねないのではないかと考えます。

 

そんな、時に行き過ぎた優しさや配慮、潔癖さを持つポリコレですが、小説の世界には必要がないのではないかと私は考えています。ある社会に所属する人間が生み出すものだからこそ、小説には世相が映ります。その程度の映り込みのポリコレは、存在しても問題ないでしょう。しかし、物語の中で過激に政治的正しさを追求すれば、言葉狩りにもつながってしまいます(図書館戦争を彷彿とさせますね)

 

不穏な前置きになってしまいましたが、雪舟えまさんの『緑と楯 ハイスクール・デイズ』を読みました。いったんポリコレは脇において説明をすると、男子高校生二人のピュアな恋愛小説です。

 

 

緑と楯 ハイスクール・デイズ

緑と楯 ハイスクール・デイズ

 

 

 

優等生でどこか冷めたところがある兼古緑は、人気者でマイペースな萩原緑と卒業までかかわりたくないと思っていましたが、ある日担任から病欠している緑の様子を見に行くように頼まれます。いつも誰かと一緒にいる楯と、ふたりきりで時間を共有した時、緑の心にこれまでにない気持ちが生まれて……?

 

という、どこか少女漫画めいた導入で、その後もさわやかでじれったくてこれぞ青春と言わんばかりです。以下ネタバレ(というか人によってはネタバレと思うかもしれない)のでご注意ください。

 

 

機能不全家族に生まれ、両親の間を取り持つべく生きてきた緑と、家族や友人に愛されている楯という組み合わせがとんでもなく刺さります。誰かに愛されたい、特別だと言ってほしいと苦しむ緑を愛するのが、他の人からの愛を一身に受けてきた楯なのです。

私も機能不全家族に生まれた身なので、それはそれは緑に感情移入して読みました。

 

世界観も独特で最高です。物語の舞台は未来東京。緑がアルバイトをしているのは、なんと葬式のための飛行船(地上で遺族たちが立食パーティーをしているところに、船内で火葬した故人の遺灰をまくという、なんとも未来的な形の葬式になっているそうな)。未来浅草の隅田川の上を、飛行船がいくつもぷかぷか浮かんでいる光景を想像すると、うっとりしてしまいます。

雪舟さんの小説の登場人物は、名前が独特なことも、作品の雰囲気を作り上げてると思います。中学の同級生に名字が「楯」の子がいましたが、名前で「楯」は聞いたことがありません。「緑」というのも女性の名前では多いかもしれませんが、男性名では珍しいのではないでしょうか。楯の母親で、名前が独特な「べべさん」が語る楯の名前の由来も素敵です。

 

この小説がどうポリコレにつながるのかというと、同性愛者を描いた物語だということです。商業BLは今や一大ジャンルとして発達しています。私が書店で働いていた時も、よく売れていた印象があります。

今のところはあまり見かけませんが(私の知らないところで問題になっているのかもしれないけれど)、ポリコレの考え方がより日本に輸入されてきたら、BLの立場も危うくなってしまうのではないかと思うのです。もちろん自分が同性愛者でBLをたしなむという方もいるとは思いますが、BLを好む人の中で言えば、割合は異性愛者が多くを占めるでしょう。社会でのマジョリティも異性愛者であり、異性愛者が同性愛作品を書く/読むのは、同性愛者に対する搾取であるという言説が生まれてもおかしくありません。

 

私の知り合いの同性愛者の方に、BLについてどう思うか聞いてみたことがありますが、あくまでその人は「別にいいと思う。気にならない」と答えていました。しかし、上に挙げた例と同じように、当事者が気にしなくても、政治的正しさは関係なく迫ってきます。

 

しかし私は、これは違うと思うのです。

 

多様性が叫ばれる中、LGBTsもカミングアウトをするだのしないだの取り上げられています。しかし本来であればカミングアウトはしたくなったらすればいいだけの話で、されたとしても「そうなんだ」で終わるべきだと思います。

LGBTsの恋愛も、異性愛も、どちらも恋愛というくくりのなかの一つにすぎません。

社会でも、小説の中でも、あえてBL、GLというくくりを持つのではなく、本の中にいろんな恋愛の種類がある、それでいいじゃないかと思うのです。どの立場の人が、どの立場の恋愛小説も楽しんで読めるというのが、理想的なあり方ではないかと思うのです。もちろんすべてを楽しまなくてはいけないということではなく、楽しみたいものを楽しむというスタンスで。

 

そういった意味で、『緑と楯』は衝撃的というか、理想的な作品でした。

表紙はタイトルを挟んで目を合わせる二人の男子高校生が描かれ、帯にはあらすじと紹介。そのどれからも「BLを売りにしている」「同性愛を扱っている」ということに対するアピールは見て取れませんでした。かろうじて、帯の「未来東京に生きる二人の男子高校生。じれったいほど凸凹で、照れくさくなるほど、ピュアな恋の軌跡!」とあるところから、ああ、男子高校生二人の恋愛ものなのだな、と思う程度です。

 

また、内容も2040年代の未来東京が舞台だからかもしれませんが、同性愛であることへの引っ掛かりのようなものは感じられませんでした。緑は楯への気持ちを自覚した時に、自分が同性愛者であることに葛藤したりしませんし、楯も緑の気持ちを当たり前のものとして受け止めます。また、楯の友人である女子高生が、将来の希望を語るときに「私は月でB・L(ブルーラブ)小説を書く」と答えます(BL小説と同義)。現在では腐女子として、隠れた存在とされていますが、未来ではイケイケ女子高生が堂々と語ることができるものとして扱われています。

これこそが、未来のあるべき形なのではないかと考えました。

もちろん雪舟さんがそこまで意図したわけではないかもしれません。しかし社会を映す小説が、このように少しずつ変化していけば、ポリコレに負けることなく、むしろ社会がそうなる前に先に理想的な形を世に示していけるのではないかと思うのです。

 

以上、小説に可能性を感じた話でした。いつも以上に乱文失礼いたしました。